高久隆古

よみたかくりゅうこ
没年安政5年(1858)

解説

白河藩主阿部家の家老である川勝家に生まれました。
10代の頃から好んで絵を描いていましたが、素行が悪く家を勘当され、放浪ののち江戸に出て、谷文晁の門人である依田竹谷(よだちっこく)に入門しました。20代で京に上り、復古大和絵派(古典的な大和絵の再興を目指す)の絵師・浮田一蕙(うきたいっけい)に師事しました。江戸に戻った後は評判が高まり、のちに実家の勘当も解かれました。
天保14年(1843)、文晁門弟の高久靄厓が跡継ぎなく急死し、周囲のすすめで高久家の養子となりました。隆古は、京都の他、関東や甲州、白河などを旅し、様々な人物と交流しています。例えば文晁門弟の渡辺崋山に私淑し、また坂下門外の変に関わった尊皇家・大橋訥庵と交流しています。こうした交友の中で、南画、大和絵、崋山風の花鳥人物画などの幅広い画風を深めました。
晩年には佐原(千葉県香取市)を訪れ、半年滞在しています。しかし江戸への帰途、病気で急死し、江戸谷中の天龍院に葬られました。

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