広瀬蒙斎

よみひろせもうさい
生年明和5年(1768)
没年文政12年(1829)

解説

白河藩主松平家家臣・広瀬庄八の子として生まれました。名は典(政典)、通称台八といい、蒙斎は号です。
22歳のとき、藩主定信の命により、江戸湯島の昌平黌(しょうへいこう、昌平坂学問所)に入学し、朱子学者の柴野栗山(しばのりつざん)らに学びました。その後西国へ遊学し、各地の名所旧跡を訪ねながら長崎まで赴いています。寛政10年(1798)より白河藩の藩校立教館の教授を務め、領内のさまざまな人々を門弟としながら、定信の侍講としてときには藩主への講義も行いました。
蒙斎は、定信のもと多くの歴史事業に参画し、業績をのこしています。定信の命により柴野栗山や谷文晁(たにぶんちょう)ら多くの学者・絵師が関わった古文化財図録『集古十種(しゅうこじっしゅ)』については、蒙斎が編さんに関わり、上梓の際にはその序文を記しています。
また、白河の歴史に関しても、『白河風土記』『白河古事考』などの歴史書を編さんしました。これらは今でも白河の歴史研究には欠かせない本です。このほか、搦目(からめ)の白川城跡の崖面に刻まれた磨崖碑「感忠銘碑(かんちゅうめいひ)」や、南湖築造の事情を記した「南湖開鑿碑(なんこかいさくひ)」、鹿嶋神社三重塔の由来を記した「浮屠碑(ふとのひ)」など、白河の重要な歴史資料となっている石碑の多くは、蒙斎の作文によるものです。
晩年には、藩主松平家の桑名転封に伴い、蒙斎も桑名へ移りますが、その6年後、62歳で亡くなりました。

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