巨野泉祐

よみおおのせんゆう
生年安永3年(1774)
没年天保8年(1837)

解説

白河藩士の大野家に生まれました。本名は安勝といいます。
26歳で藩の御絵師に命じられます。絵師としては、はじめ大野文泉と名乗りましたが、文化8年(1811)以降は巨野泉祐と名乗りました。
泉祐は、藩主定信の命により、さまざまな編纂事業に携わりました。寛政11年(1799)には、全国の古画を模写し分類・編纂した『古画類聚(こがるいじゅう)』を清書し提出しています。同じく全国に伝わる古宝物の図録である『集古十種(しゅうこじっしゅ)』の編纂にも携わりました。
また用務で各地を旅した際には、定信の求めに応じて道中の風景を描いた真景図を提出しました。例えば文化5年(1808)、定信の息子定栄(のちの長野松代藩主真田幸貫)の甲子温泉湯治に同行しており、道中の景色を描いた「奥州白川甲子山真景図」が現存しています。
その他、白河領内各地の真景図や、小峰城内にしつらえる屏風や杉戸絵など、藩からの様々な注文に応じ、制作に勤しんでいます。
文政6年(1823)、藩主松平家が桑名藩(三重県桑名市)へ国替えとなったため、泉祐も桑名に移り、天保8年(1837)に64歳で没しました。

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