谷文晁

よみたにぶんちょう
生年宝暦13年(1763)
没年天保11年(1841)

解説

松平定信の生家である田安家の家臣・谷麓谷(たにろっこく)の子として生まれました。
絵は10歳の頃より、狩野派の絵師で伊予大洲藩主加藤家の一族でもあった加藤文麗(かとうぶんれい)に学び、続いて渡辺玄対(わたなべげんたい)に学んでいます。寛政4年(1792)には松平定信付となり、以後定信との関係は生涯にわたりました。
文晁は江戸の下谷(現東京都台東区)に画塾「写山楼(しゃざんろう)」を構えており、全国から多くの入門者がありました。中国画、日本画、西洋画などをおう盛に学び、それらを折衷して幅広い画風の作品を残しました。当時江戸の絵師としてはもっとも有名な人物の一人でした。
文晁の作品としては、老中定信が伊豆相模を巡視した際に随伴し、海岸の様子を描いた「公余探勝図」が知られています。また、定信が全国の古宝物を調査・模写させつくらせた『集古十種(しゅうこじっしゅ)』『古画類聚(こがるいじゅう)』にも関わりました。二人は私的にも多くの書や絵のやり取りをしており、文化人としての交流もあったようです。
文晁の弟子には、白河の絵師である巨野泉祐、蒲生羅漢らもいました。また、文晁作品の中には、落款に「於小峰山房」などと書かれたものが数点確認されています。これは文晁が定信に随行して白河を訪れた際、小峰城内に構えたアトリエにおいて制作した作品で、白河における制作活動をうかがわせる貴重な資料でもあります。

この作者の資料一覧[全6件]

件ずつ表示

PageTop