豊見城 高良 光昭(山原疎開 大宜味村喜如嘉)_1_全文
| ID | 1170951 |
|---|---|
| 作者 | 高良 光昭 |
| 作者備考 | 出身地「豊見城」、1934年(昭和9年)生、当時10歳(小学校5年生) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 山原疎開 |
| 資料名(別名) | 豊見城_高良 光昭_「避難生活の日々」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開(大宜味村喜如嘉)、山原疎開、海軍壕、真玉橋駅から嘉手納駅(軽便鉄道)→山田小学校(1泊)→徒歩→喜瀬→羽地(1泊)→塩屋(渡し舟)→大宜味村役場→喜如嘉→喜如嘉当山の避難小屋、デマ、捕虜、渡橋名 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.915-918 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | 豊見城 高良 光昭(山原疎開(大宜味村喜如嘉))_1_全文 |
| 出典2リンク | https://jmapps.ne.jp/tgda/det.html?data_id=1566011 |
| 出典3 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典3リンク | https://youtu.be/KczOO1o9VPo?feature=shared |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 豊見城 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 昭和19年の10.10空襲(十・十空襲)は、午前7時半頃に始まり、小学校4年生だった私は丁度そのとき登校途中だった。低空で飛んできた飛行機と大砲の音が聞こえた時は日本軍の演習かと思ったが兵隊さんが「空襲、クーシュー」と叫んだので私は屋敷内に縦穴を掘った簡単な壕に入り込み避難した。 中はひざまで水が溜っていて、私は腰を曲げたまま、ブルブルふるえていた。その後、母と一緒に整理してあった火番原の古墓に避難した。 午後5時か6時頃、那覇方面を眺めると那覇の街と小禄飛行場が燃えていて夕やけみたいに見えた。 空襲の後、那覇、大嶺、鏡水から多くの人が豊見城村に避難して来た。その子ども達も一緒に第一国民学校(現、長嶺小)に通った。学校は兵隊さんが使用していて、生徒は学校の隣の饒波馬場に集まり、饒波の拝所と高安御嶽で授業を受けた。 兵隊さんが平良と長堂に陣地壕を掘っていたので、私たち4年生は作業の手伝いに行った。男生徒は壕の中に入り、兵隊さんが掘った土を小さいザルに入れ、手渡しながら壕の外へ出し、さらに女生徒がそのザルを同じように手渡しで捨てて行くという作業だった。作業を終えてからカンパン2個と星砂糖4個をもらった。初めて食べるお菓子でめずらしく、とてもおいしかった。また、そのときは国の為に、とてもいい仕事をしたとうれしく思った。 字豊見城の集落内には、公民館や馬場周辺にガソリンの入った白いドラム缶がたくさん運ばれてきた。弾薬も木の下にたくさん置かれていた。「弾薬の近くに行ったらスパイとまちがえられて日本刀でタタッキラレルよ」と私達はいつも母から注意をされていた。夜になるとお腹をすかした2、3人の兵隊が芋をもらいに家庭をまわっていた。運が悪い兵隊さんは、上等兵に見つかり、叩かれて、メガネを落とし翌朝早く探しに来ることもあった。 空襲が次第に激しくなり、米軍の上陸なども考えて、母は、子ども5人中3人(兄、私、弟)を山原に避難させることにして、一緒に山原まで送ってくれた。母の妹である、おば一家3人も一緒だった。 昭和20年3月16日字豊見城を出発、真玉橋駅から嘉手納まで汽車に乗り、その後は山田の学校まで歩いてそこで1泊した。その学校は兵隊さんが使って出て行った直後で足の肌が見えないくらいノミがくっついて来た。地元の婦人会が皆に配ってくれたオニギリがとてもおいしかったのを憶えている。翌朝は軍用車に乗った人達もいたが、私たちは歩いて喜瀬の学校に行った。泊るつもりでいたが、「危ない」との事で歩き続けて、夜、羽地の学校に着いた。ひもじい思いをしながら寝た。 翌朝は早くから出発し、塩屋の渡し舟に乗りに行った。途中、人が1人通れるぐらいの幅の狭い丸木橋を渡った。足元を見ると潮の流れが早く、私はたちまち目がくらんでしまった。近くには爆撃を受けて沈んでいる貨物船もある。それを見ながら自分達もあんなふうになるのかとこわくなった。渡し舟に乗ってからも皆無口でいつ敵機の攻撃を受けるか、とても不安な気持ちでいっぱいだった。大宜味村の役場に行ったら「こちらも危ない」と言われ、又、歩き続けて着いた所は喜如嘉だった。喜如嘉から一里もある当山の避難小屋に着いたのは夜中だった。その晩は落ちついて眠ることができた。母とおばさんはその後部落に着いた自分たちの荷物を運んで来た。翌朝は早く起きて、避難小屋の周辺を回ってみたらシージャーの実があったのでたくさん拾って来た。 そのあとで、母は私達子ども3人に「何かあったら必ず迎えに来るからおばさんの言うことをよく聞くように」と言い、おばに私達のことを頼んだ。そして、豊見城に残り郵便局で電話取り次ぎの仕事をしている姉と、兵隊の伝令員をしている兄と一緒に、自分は国のために頑張ると言いのこし、豊見城に戻って行った。これが母と私達との最期の別れになった。 当山の避難小屋が爆撃された時、隣の山の中に避難していたが爆弾が落ちると同時に私達は土をかぶっていた。その時私はアメリカの弾は土だからこわくないと思った。 避難小屋が燃え、山の木々に火が燃え移り、パチパチと燃える音におびえ、煙に追われ焼け死にするかとこわい思いをしながら私達は一生懸命逃げた。本部で育ったおばさんの土地勘のおかげで川に添って部落に下りて行く事ができた。その時、親とはぐれた別の子ども達もついてきた。おばさんは皆に角砂糖をあげ、勇気づけていたが、はぐれたその子どもたちの親に、よその子まで連れて行ったと、怒られたり、また別の人には助けてくれたと感謝されたりと大変だった。 そのあと、山の中の炭焼き小屋を探して途中で一緒になった6家族18名で避難した。どんな事があってもこの18名は一緒と決めていた。1日1日と爆撃と艦砲が激しくなっていく。18名は朝早くから東の方向に向かって「今日1日助けてほしい」と手を合わせる日が続いた。弾に当たったのかイノシシがうなって逃げころがって行くのも見た。しばらくして、そこも危ないと思い、兵隊さんにお願いして谷底の小屋に18名で避難したが、食べるものがなく、夜は部落に行って芋を取ってきた。空腹のうえにその頃は雨続きでその小屋もジメジメして、居ごこちも大変悪く、毎日とてもきびしい状況だった。 「アメリカ兵が山に上って行った」とか「島尻では製糖も始まっている」等のデマが流れ、大雨の中を島尻まで道案内者と一緒に行く人の話も聞かれた。私達も平和で落ちついていると言う島尻に戻ることを決めた。そして出発を前にお湯をわかして体を洗おうということになったが、その時、ある子が誤まってお湯をかぶりやけどをしたので、少ししかない味噌をくっつけて手当てをした。やけどした子の家族を残して島尻に発つことはできないので、結局18名で残る事にした。そのまま、谷底の小屋にいては餓死するからと当山の避難小屋に戻り、夜は芋掘りに行き、夜明けに芋を持って帰る日が続いた。また、ソテツを刈ってきて、水にさらしてアク抜きをし、モチみたいに炊いて食べ、飢えをしのいだ。飢えがひどくなると、手足が腫れてくるのがわかった。 いつも杖がわりの棒を持ち歩き、たまには、ハブやヤンバルカーミー(リュウキュウヤマガメ)を殺して、小屋に持ち帰り、焼いて皆で食べた。何もないのでとてもおいしかった。 ある朝いつものように部落へ下りて芋を掘って戻ろうとしたら、アメリカ兵が山の入り口附近を囲って陣地にしてあった。 芋掘りに行って、そこでアメリカ兵につかまった母親達は言葉が通じないので「乳のみ児がいるからたすけてー。」とオッパイを出してお願いしたという。 13歳になっていた兄もそのとき米兵につかまったが、「明日までに下りて来ないと山に火をつけて燃やす」と2世の米兵が話すのを聞いて、その場からこっそりにげ出し、当山の避難小屋まで知らせにきた。その夜は、「明日、山を下りてアメリカ兵の前を通る時は手を上げて、笑って歩こう」と………心で泣いても平気な顔をしようとみんなで話し合った。それでも捕虜になったら殺されると一晩中泣いていた。 朝、避難小屋を出て、山を下りる時、友軍があっちこっちの木のしげみで銃をかまえて立っているのでこわかった。途中、年をとって歩けないおばあさんに「一緒に連れて行って!」と頼まれたがどうしようもなかったのを、今も覚えている。 私達が喜如嘉部落の入り口に来た時、たくさんのアメリカ兵が裸になって、バショウの木をめがけて、短剣を投げていた。私達もそのように短剣で殺されると思いこわくなった。人について部落の中に行くとアメリカ兵がガムとお菓子を渡してくれたが、とても食べる気にはならなかった。 喜如嘉の民家に落ち着いた。夜、アメリカ兵がジープに乗って、部落内にアース(殺虫剤)を撒いていた。 捕虜になって喜如嘉での2、3ヵ月は山から薪を取って来て、海から潮を汲み塩を作った。 アメリカ缶詰や魚の配給があり、カンダバー、ターベーナー、シーリバーなどで飢えをしのいだ。たまには、家主のおばさんが芋を持って来て下さった。とてもありがたかった。 10月頃GMC(米軍トラック)で喜如嘉から豊見城村渡橋名部落の広場に着いた時、他の人たちには多くの親戚や知人が迎えに来ていたが、私達家族を迎えてくれる人はいなかった。割り当てられたテントは芋畑に張られ、テント1つに4世帯が生活した。目の前のたくさんの芋を見て、食べると言うより、掘って満足した。 壕や山などに、味噌や缶詰など食べ物を探しに行き、アメリカ兵舎から缶詰をもらってきたりで次第に食べ物に不自由しなくなった。 その年の12月31日大晦日、アメリカの大砲とサイレンが鳴りひびいたので、再び戦争が始まったかと騒いだが、後で祭りとわかり、安心した。 (1996年11月) |
