豊見城 高良 光昭(山原疎開 大宜味村喜如嘉)_1_全文
| ID | 1170011 |
|---|---|
| 作者 | 高良 光昭 |
| 作者備考 | 出身地「豊見城」、1934年(昭和9年)生、当時10歳(小学校5年生) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 山原疎開(大宜味村喜如嘉) |
| 資料名(別名) | 豊見城_高良 光昭_「10歳の高良光昭さん。貧しくとも歌を歌って懸命に働く母が忘れられません。山原疎開へ送り出した母。別れの時、交わした言葉とは…」_1_全文 |
| キーワード | 山原疎開(大宜味村喜如嘉)、山原疎開、海軍壕 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/KczOO1o9VPo?feature=shared |
| 出典2 | 豊見城 高良 光昭(山原疎開)_1_全文 |
| 出典2リンク | https://jmapps.ne.jp/tgda/det.html?data_id=1566951 |
| 出典3 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.915-918 |
| 出典3リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 豊見城 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 家族 貧しい家庭だった。自分の家もなく、あっちこっち借りて、母は私達を成長させた 戦前のくらし (母の仕事は)日雇いで稼ぐ。あっちこっちやってちょっと儲けて、私達を成長させた 屋敷もないので、空いた所を借りて生活していた。 各家庭の日雇をやって、自分の仕事は夜間。歌を歌いながらやっていた記憶がある。 学校 (学校は)豊見城第一国民学校。(字の同級生は)男は6名。女は7名ぐらい。 キュウリ (登下校に)畑のキュウリを石火矢橋から海に投げて泳いで食べたのが楽しかった。 キュウリに海の塩がついて、美味しいよ。 飛行士 (あの頃の夢は)兄が、飛行場で工事をしていて、いつも飛行士が降りるのを見ていたので 絶対飛行士になろうって思っていた。敬礼する気持ちをいつも見ていた。 壕掘り (軍の奉仕作業で)壕掘りをした。豊見城団地、金良のところ。 男は壕の中、女は小さいザル持って手渡しで。 壕堀りが終わった帰りは、戦争に勝ったという気持ちになった。自分達が加勢したから、もう勝ったと (壕堀り後に)乾麺麭2つと金平糖4つをもらった。乾麺麭は今の乾パンで固い 戦争に行った先生 「飛行士になって、第一国民学校の上を通るから、手を振って見て」と戦争に行った先生は言っていた 「あっちに小便してくる大便してくる」と言ったが、大便は爆弾の意味。小便は機銃の意味で 絶対に行くと言って、戦争に行った先生もいた。特攻隊になったのか、わからない。 山原疎開 豊見城出発 急に、おばさんが山原疎開すると言って、私達も連れて行くと言って。 2、3日で。母と叔母の姉妹は、よその家から聞いて、すぐ山原疎開を決めた 3月23日の大空襲が終わって、山原疎開するように言われた 嘉手納までは汽車に乗って行った。 山原疎開 山田の学校 それから恩納村山田の学校。学校まで歩いた。 その時、学校に泊まったら、ノミがいっぱい。足にいっぱい、ノミがついた。 山田の学校は、ノミがいっぱいついたという印象。兵隊がいた所の後には、たくさんノミがいる 山原疎開 喜瀬の学校 1泊して、次は喜瀬の学校。そこに行ったら、ここまで爆撃くるから、羽地まで歩きなさいって それから後は、爆撃がきているから、あっちこっち、家族もみんな別々。 ここは名護に近いし、爆撃来るから、ここでは休まずに羽地へ。着いた時は夜遅くになっていた。 山原疎開 羽地の学校 羽地では、婦人会がおにぎり作って、(避難民を)待っていた。 それからはみんな別々。おにぎりが美味しくて、印象に残って もうずっと歩き。羽地から歩いて塩屋へ。 山原疎開 塩屋 木橋とサバニ (今は)塩屋大橋があるが、まわりは3里ぐらいあるけど、あっちは行かないで。 ここは、宮城島という離れ島があって、(島に渡る橋は)木で、 (渡る時に)波が流れるのが分かるので、目が回りながら、歩いた覚えがある。 渡ったら(宮城島に)サバニがあるので(乗って渡った)その時におばさんが 「絶対無事通して下さい」祈って。船に乗って爆撃されて、船が沈んだ人もいたから 手を合わせながら、(サバニで)塩屋に真っ直ぐ着いた。 山原疎開 喜如嘉到着 それから大宜味に歩いて3日ぐらいには着いたと思う 母も連れて(山原までは)一緒に 「おばさんが言うのをよく聞きなさいよ」と言って「迎えに来るよ」って (豊見城に)帰っているから、それがいつも頭に残っているわけ (母は)避難小屋まで私達を連れて行って 翌朝は豊見城に帰っていった 山原疎開 母との別れ 私は、お母さん子だから(豊見城に帰る時)母は、私がついてきたら大変だと思って 救急袋に山原シーグヮー(山原のおみやげ) 救急袋というのは、名前書いてある。どこで亡くなっても(わかるように)名前が書いてあるから その袋を持って シーグヮー(おまけ)、 おみやげとして、持っていくからと私に言って 「あんたは、山に、いっぱい取っておいで」って。弟と兄貴は母の見送りをしているよ。 私はお母さん子だから着いてきたら大変だから。 母は「おばさんが言うのをよく聞いてよ、迎えに来るよ」って 今でも、そのまま迎えに来るような感じ。もう私も80才こえても、その意思がいつもある 今でも。 山原疎開 避難民小屋 最初、当山避難民小屋は、豊見城村の方が来るように、避難小屋が作られていた 謝名城にも田嘉里にも豊見城の方が住んでいた。 何坪くらいか…10坪くらいで、茅葺の屋根がいくつもあった。 10(棟)以上はあった。豊見城村の方はあっちに収容するようになっていたと思う 茅葺で、茅葺と言っても竹、壁は編まれた竹。 床は無いような感じ。そのまま土面だったと思う。床は無いと思う 山原疎開 イモ堀り みんなイモ掘り、おばさんたちは。人の畑。いざとなったら主は関係ない 持ち主がいても、取っていく。人間は食べるの無かったら、人のものを取るのが、自然 山原疎開 爆 撃 私の避難小屋が爆撃された時、土をかぶったが、アメリカ軍の弾は、土だからなんでもないって。 破片が飛ぶのも分からん。破片も習ってないから、怖さも分からない。土しか覚えてない。 「アメリカの弾は土であるからなんでもないよ」と思った 山原疎開 山火事 (山火事は)焼夷弾が落ちて、みんな別々に(逃げた) 私のおばさんは山原(出身)だから、川沿いに逃げた。山火事は水を頼って逃げるものだと。 それは、おばさんが経験で。川に沿って集落を下りんと、山で火にまかれて、大変だと言って (私のおばさんが)私達を連れて川沿いを逃げたら、よその子どももみんなついてきていた。 (その子達の親には)怒るのもいる。「どうして私の子を連れてきたのか」と言うのもいるし、 また、「子どもを助けてくれてありがとう」と言う親もいるし 山を下りて捕虜に 私の兄もイモ掘りは上手だから、おばさんと一緒に行っていた。 当時は、おばさんは行かんで、兄が行っていたが、別のよその方も一緒に捕虜されてしまった 喜如嘉の七滝坂のところ、(アメリカ軍が)兵舎作っていたので、みんな捕まれたが 私の兄は、小さいから、後ろに回って逃げてきて 「今日までだよ。明日は殺される(米軍が)山を焼き上げるから下りなさい」と言った その一晩はみんな泣いて。「明日までだ」と 「下りる時は絶対、あっちで笑って、手を挙げて笑って迎えなさいよ」と(兄が)言っても 本当は(心では)泣いているよ。歯だけ笑って、こんなにして下りたら アメリカ兵が裸になって、短剣持って、芭蕉に投げるのを見て ああ、こんなふうに、私達も殺されると思った。 喜如嘉 民間の家 それから(喜如嘉集落の)民間のお家に私達家族は入った。 おばあさんが一人いた。それと孫と。おばあの子の孫がいて いつも「頑張ろう、頑張ろう」で、私達を励まして、イモもみんなにあげるくらい。とってもいいおばぁだった 母や姉の消息 喜如嘉にいた時、(家族の消息を知りたくて)言ったことあった。 姉と同じ年ごろの人に「私の姉は、豊見城だけど、いなかったですか」って。 今思うと…知らない人だから、聞いても、わかるはずもない。 だがそのぐらい、親が、姉達が、迎えに来ることしか頭にないから みんな一緒だと思っていた 豊見城村へ帰る (豊見城に戻ったのは)たぶん、9月10月頃 渡橋名の、私達は最後の・・・ 豊見城村は、最初の方は伊良波、座安、渡橋名が一番。 私達は後だから、渡橋名のイモ畑にテント張ったところに移った 来た時は鉄条網が張られて、壕の入り口とか。今の渡橋名の県営団地。あの辺の山にあった 米軍のトラックで戻ってきたら、みんな家族元気でいるし、私達は誰もいないし、寂しい思いで 「お母さん、迎えに来ないな」その気持ちがいつも残っていた (他の)家族はあっちこっち「元気だったね」「元気だったね」って迎えに来る だけど、私は誰も迎えに来ない 字豊見城に帰る 渡橋名からシマに戻った時は、トゥーバイフォーで1棟2棟の配給ヤーがあった。 私の家族6名。区長の指示で、貧しい家庭から、女たちから、家族が多いところから 作ろうと言って、集落で作っていた。みんな茅刈ってきて、みんなで作った 母の死の真相 (戦争中)母は、姉も兄も、家族は一緒に、海軍壕の墓に避難した。 (壕の)中で、みんな毒ガス。兵隊一緒。何百人か分からん。逃げて2人は助かった。 その2人が証人。母はもう死ぬと捕虜されても大変だからとみんな一緒に重なって死んでいた もう100人以上亡くなっているから、探すこともできない 考えたのが、指を切って血を出して(自分の血が)骨に染まるのは親だと。その方法で探そうとも思った だが骨はない。みんな骸骨なっている 母への想い 私は屋敷も無い、何も無いが、家も立派に作った。それは母親が見守っているからできたと思う (死を)15、16、17までは考えた。どうしたら死ねるか。だが死なない。だからその代わり、親が 死んだ親が迷って、胸騒ぎがする 「あなたはこんなことするの」って、親が、歌を歌った感じが聞こえるわけ 「おばさんの孝行しなさい、絶対負けるな」 それは親が教えたような感じ。 母が「死ぬのは早い。おばさんにちゃんと孝行しなさい」って。 「天にいて死んでも死にきらん」母がわめいて騒ぐ だから、ああ、何があっても、母親が見ているから、絶対(生活を)上等にさせようと生きてきた 次世代へ 戦争経験した方は、大先輩方も大変だったと思うけど、二度と戦争はやって欲しくない。 またやってはいかん。みんなの和をとって平和に。 明るい生活ができるように、みんなで助け合いができるようにやって欲しいと思うわけ それが、ウチナー口で「イーマール」「ユイマール」と言う。 みんな、無くてもあっても。 そんな和がね、みんな平和で上等にしてほしいと思う。助け合い 収録日:2018年(平成30年)10月25日 |
