真玉橋 金城 静子(村内避難) 1 全文
| ID | 1170651 |
|---|---|
| 作者 | 金城 静子 |
| 作者備考 | 出身地「真玉橋」、1916年(大正5年)生、当時28歳 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 村内避難 |
| 資料名(別名) | 真玉橋_金城 静子_「避難生活の日々」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)、夫は防衛隊に召集、知念森の憲兵隊壕 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.795-797 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典2リンク | https://youtu.be/obwIakjPSug?feature=shared |
| 出典3 | 真玉橋 金城 静子(村内避難)_1_全文 |
| 出典3リンク | https://jmapps.ne.jp/tgda/det.html?data_id=1566291 |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 真玉橋 |
| 市町村2 | 豊見城市 |
| 字2 | 長堂 |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 私は大正5年生まれで、当時26歳だった。家族は父母・夫・私・子ども2人の6人だった。 戦争前は、母が子どもたちの面倒を見ていた。母は腰が曲がっていたのであまり仕事は出来なかった。自分の家は大きかったので兵隊が入り込んで住んでいた。自分達は豆腐や野菜を作って兵隊に供出していた。 夫は防衛隊に召集された。今の豊見城城址公園あたりにあった部隊に行っていた。当時馬や牛も飼っていた。おとなしくいい馬がいたのでその馬も連れていった。軍に売ったのかどうか定かでない。夫は豊見城城址公園のところの兵舎と宜保のあたりの馬小屋を行ったり来たりしていたようで、召集されてから一度も家に戻ることはなかった。それっきり終戦まで行方知れずである。 10.10空襲(十・十空襲)の始まる前から自分達は戦争が近づいていることを知らされた。屋敷の一角に壕を掘り、そこに避難した。壕に入ったり出たりするほかは、普段の生活とあまり変化はない日々だった。 昭和20年4月の沖縄戦開始まで私達は屋敷の壕に入って生活していた。食事は家に戻って作って食べ、また壕に戻るという生活だった。きっとここまで米軍はこないだろうと安心しきって避難生活を送っていた。 米軍上陸の第一報は避難民どうしの噂で聞いていた。 その後も真玉橋の集落内で避難していたが、その時からは弾もボンボン落ちてきて、〇〇〇の〇〇〇さんの母と嫁、ブラジル帰りの夫婦(那覇の人)が亡くなった。食事は川辺で薪を拾ってきてはご飯を炊き、野菜もあったので、食べるものにはあまり不自由しなかった。 母が腰が弱かった為、私たちの家族は誰よりも早く避難した。屋敷の壕は父が掘った。父も戦争はどこにいっても同じだからここにいておこうとの意見であった。母も家族は皆一緒だから、自分が動ける範囲内で行動しようといつも言っていた。 空襲が始まったので、日本の兵隊達に壕から出るようにと言われ、近くの墓に避難した。しかし子どもたちが墓の中での生活を嫌がり泣くので、知念森の憲兵隊壕へ行った。だが、ここでも子どもたちが泣くので日本兵に怒られた。子どもが泣くと、ここにいるのがばれるから出ていくようにと言われた。そして知念森の川沿いの木の下で生活していた。蚊も多く蚊取り線香を持っていった。傘も持っていった。雨が降ると困るので、雨の日には木の上に傘を張っていた。食事も薪を拾ってきて家から持ってきた鍋に炊いて食べていた。幸い雨の日は少なかった。 しばらく私たちは知念森の川辺に避難していたが、ついに進撃してきた米軍に囲まれ「出テコイ、出テコイ」と迫られた。このとき子供達がひどく泣くので、周りにいた人たちからも「出ていけ」と言われ、途方に暮れた。このまま出ていっても殺されるだけだと思い、私は覚悟を決め、4つになる長女と背中におぶっていた1歳の長男を道連れに川に身投げをしようとした。すると近くにいた友軍の兵隊に「早まるな」と引き留められた。「これからはどんな世の中になるか分からない。死ぬのは早い」とさとされ命拾いをした。 結局、捕虜となった私たちはそこからトラックに乗せられ、クチャグヮー(古知屋)に連れていかれた。米軍に捕まった時、持ち物も全部とられた。父は腹巻きにお金を持っていたが、それも全部没収された。 沖縄戦終結は山原のクチャグヮーで聞いた。お金もなく食べる物も少ないので、自分で働いて食べ物の補給を考えた。 クチャグヮーでは、茅葺きの家が準備されていた。真玉橋の他の6家族も一緒だった。家は14坪か15坪だったと思う。20名くらいひしめきあって生活していた。そこでは配給があった。乾パンなどもあった。 父がそこで軍作業に出て、米2合を毎日もらってきていた。その米に水を沢山入れ、乾めんを入れ、雑炊にして20名で食べた。鍋とかは地元の人にお願いして貸してもらった。部落から出る時は返すとの約束で借りた。地元の人に食べ物を少し下さいとお願いしたときもあったが、あなた方にあげるのはないと断られた。 雨が降ると茅葺きの家は雨漏りして、床がジメジメするので茅を敷き、濡れるとまた取り替えるという生活だった。金もないので、何も買って食べることは出来なかった。 その後、クチャグヮーから米軍の車に乗せられて渡橋名に帰ってきた。そこでは共同作業があった。渡橋名ではテントを張った収容所と民家があった。自分達は知り合いがいたので、焼け残った民家に入ることができた。共同作業では芋掘りに行き、収容された人達皆で分けて食べた。米軍からの配給もあり、食べるのに不自由はなかった。 この頃真玉橋に行くことはしなかった。なぜなら父が部落のおばあさんと一緒に真玉橋を見に行った帰り、このおばあさんが黒人に墓に連れていかれた。男3人で押しかけて行き、やっとおばあさんを連れ戻した話をしていた。だから若い女性は絶対行くなといわれていた。私たちはしばらく渡橋名にいて近くの畑から芋を掘って共同作業に出た。4カ月くらい後に真玉橋に歩いて帰った。月日は覚えていない。家族全員誰も戦争にやられた人はいなかった。皆無事であった。 戦中は自分達が掘った壕に着物や食べ物、位牌を置いてあった。それも無事であった。また堆肥小屋が戦災を免れ残っていたので、堆肥を取り除き、そこに住んだ。 着るものは米軍からの落下傘をもらい、洋服に作り直して着ていた。食べ物は自分の畑のものを取って食べていた。 防衛隊に召集された夫は、屋嘉の収容所にいた。両太股を破片が貫通していて治療をしてもらっていた。屋嘉の収容所に知り合いがいたら、引取りに行くようにほかの人から言われたので、父と一緒に屋嘉へ行き、夫を連れ帰った。夫はびっこを引いていた。家に帰ってきても仕事はあまり出来なかった。母も腰が弱く仕事も出来なかった。自分は一生懸命、夫や子どもたちの為に働いた。 1年後憲兵隊の宿舎の材料をもらってよいとの許可が出たので、材料を集め共同作業で自宅を作った。少しずつ生活も落ち着いてきた。野菜を作り農連に出して生活を支えていた。 (1996年3月聞き取り) |
