真玉橋 金城 静子(村内避難)_1_全文
| ID | 1170291 |
|---|---|
| 作者 | 金城 静子 |
| 作者備考 | 出身地「真玉橋」、1916年(大正5年)生、当時28歳 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 村内避難 |
| 資料名(別名) | 真玉橋_金城 静子_「28歳の金城静子さん。米軍上陸後、激しい攻撃の中、幼い息子を抱えて、近くの知念森に避難します。追い詰められ、自決を決意。その時、かけられた言葉とは…」_1_全文 |
| キーワード | 村内避難、 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/obwIakjPSug?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 真玉橋 |
| 市町村2 | 豊見城市 |
| 字2 | 瀬長 |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の真玉橋 真玉橋は農業が盛んで 住民は働き者でした 小学校 学校は(第一豊見城)尋常高等小学校 茅葺屋根の学校の生活でした 大勢の農家の子どもたちが勉強 頑張っていました 遊び 子どもの時は野球や鬼ごっこ お手玉いろんなことやりました (国場川)川には絶対入ってはいけなかった 怖いから 海(川)には絶対に入ること できませんでした 家の手伝い 親の手伝いで イモを掘ったり担いだりいろいろやりました シャベルや鍬を持ってうんと働きました 学校帰りは、 畑から芋を掘って運んだり 農家の仕事は こんなだったんです 改 名 今は 東上門(アガリイージョー) 前は 新知念(ミーチネン)(旧姓は)知念カメ みんなが今の時期は、名前取り替えたほうがいいよ 。 こんな昔の言葉より変わったほうがいいよと言ったから じゃー金城静子にお願いしましょうねって言って 今のところ 金城静子です 尋常高等小学校6年生から 自分がもうそれに取り変えてもらいたいって 自分が希望して これに取り替えたんです 真玉橋の日本軍 (字に日本軍は)いましたよ (日本兵)たくさん 真玉橋にいました。 あちらこちらに 夫の防衛隊入隊 (夫が防衛隊に入隊した年齢)24歳 (その時子どもは)2人 長男と長女 家の防空壕 屋敷の中に防空壕を掘っていたからそこに家族は隠れました 命令が下って みんな屋敷に防空壕を掘っています 避難する場所があったんです (米軍の攻撃がない)静かな時は 食事を作って 食べるようにしていました 爆弾の破片が木の下にパラパラ落ちて来る時がとても怖かったです その時 防空壕で命十いを すんでいましたから良かったもので 外を絶対歩くことできなかったです 防衛隊の夫 (夫は)来ない 全然来ない 家には帰って来なかったです 知念森へ 歩いていると 道に死体が転がっていました (持ち物は)お鍋とか 作った野菜 少しだけ 大変だったですよ 食べ物なんか 飲み物なんか ひどかったです 知念森の憲兵隊壕 チニンモー(知念森)という 森があってそこの憲兵隊壕に隠れていました 長男がナチブサー(泣き虫)で 「ここに置いてください」とお願いしたら、「長いことできないよ ここでは」と言われたから この戦争はどうなるか 心配で心配で 死のうと思っていたところ 沖縄の兵隊が「命を捨ててはいけないよ お姉さん」 「長男は何歳 立派に生まれた…身投げしちゃいけないよ」 と言われました 私は気持ちが落ち着いてありがとうございますと お礼しました 捕虜 子供をおんぶして海のそばの木の下に隠れました その時 アメリカ兵が 「デテコイ デテコイ」 と言って 高安の方も一緒に浜から出て 、 そこから山原に行きました (一緒に投降した人は)みんな親戚だった 初めてのアメリカ兵ですから 怖かったですよ 古知屋収容所 クチャグヮー(古知屋) 農家の人がいましたから、ちょっと手伝いをして、私たちも農家でしたから そこでも山原の人のお手伝いをしました 。イモを掘ったり、野菜つくったりして 少しはお手伝いをしましたよ 食べ物のために 大きいお鍋にお米2合に水を入れて 収容された人みんなで食べて この生活で暮らしていました 帰村 豊見城村の我那覇・名嘉地の収容所で ちょっとは住んでから家に戻りました 終戦直後、真玉橋 みんな農家で、家庭生活に頑張っていました 爆弾の破片が落ちたから 橋(真玉橋)がなくなって みんな自分の集落でもあっちこっちに散らばっていました 軍から木なんか 何もかももらってきて お家を立派に作って ここで生活して 畑は残っていますが、 どの家庭も 家が崩されて、大変でした 負傷の夫 集落生活が静かになったころに (夫は)怪我で 足が不自由だったが 帰ってきて また家庭生活に戻りましたよ 子どもができて 家庭生活に頑張り 、牛 馬も養って 家庭生活に戻りました (足の怪我は)ひどかった。足を引きずって、病院に通いながら 生活しました 夫は、 畑仕事するときに、 召集令状が来て、そのまま戦争に行って 帰って来ると、足に四箇所、 大きい怪我があって 足を引きずって、 暮らしていた あんまり酷くてですね こっちからこっちに4つの怪我だったから治ることは出来ない そのまま 足を引きずりながら 暮らしていましたが ケガがひどくて、64で亡くなっています 足を引きずりながら、鍬やショベル、 ヘラ持って、働いていました 暮らし 家庭に戻ってから、野菜をつくって、農連市場に毎日野菜を売りに 車は自分の家庭の小さな車で乗せていって 山原から野菜を買いに来る人に売って わずかで みんな100円ずつ売ってこの生活だったです 次世代へ こんな戦争がなくなるようにしないと大変です 今から生まれる子どもたちの生活に とても困ります。世の中が落ち着くようになってほしいね |
