上田 宜保 直志(南部避難)_1_全文
| ID | 1170511 |
|---|---|
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 上田_宜保 直志_「児童」_1_全文 |
| 資料内容 | 私の母親と姉1人、弟2人、妹1人の5名は昭和16年の4月に大阪に住んでいた父親のもとに行った。私も一緒に行く予定だったが、祖父母が「是非、一人は自分たちの所に残してくれ」との願いで、私は祖父母と暮らすことになった。 昭和19年、私は豊見城第二国民学校の5年生だったが、やがて、日本海軍が教室を宿舎として使用した為、私たちは校舎を追われ、座安や渡橋名の公民館(ムラヤー)で勉強をするようになった。でも、勉強らしいことはせず、兵隊の防空壕掘りの手伝いや、防空壕の内部に使う松材の皮むきをしたりの日課だった。 10.10空襲(十・十空襲)の日、私たちはいつものように朝の8時15分前、集団登校をするために字の公民館広場に集まった。登校団を組み、1年生から高等2年生まで、二列縦隊で毎日登校していたので、その日も、みんな集まって出発しようとした時、ある1人の母親が「オイ君たち、敵が来ているよ。空襲警報が鳴っている。学校に行かないで、早く壕にかくれなさい」と叫んだ。「まさか」とは思ったが東の空を見ると、ちょうどトンボが群れをなして飛んでいるような感じで、空一杯に飛行機が飛び交っていた。私たちは、日本軍の大演習のまちがいではないかと思って空を眺めていると、敵機が伊良波の上空あたりから、小禄飛行場に向かって急降下して行った。日本軍の高射砲部隊が敵機に向かって、ボンボン弾を撃ち出したので初めて戦闘だと感じた。高射砲弾は、ほとんど敵機に当たらず、敵機は次から次へと爆弾を落として慶良間諸島の方面へと旋回して行った。何度も何度も、繰り返した。その後、1時間ぐらい経つと、飛行場あたりから、大きな黒煙が立ちのぼった。 攻撃を受けている所は、字上田から遠いので、かすかに聞こえる程度だった。午前中は、飛行場を目標に攻撃をしているようだったが午後からは場所を変え、那覇に向かい、焼夷弾などを投下しているようだった。夕方まで、上田は攻撃されなかったので、私たちはウフモー(小高い丘)にのぼって見ていた。 那覇が焼けて、まるで真っ赤な夕やけのように染まった空を見たのが昨日、今日のように思い出される。それ程、強烈な印象だった。 昭和20年3月の末に、米軍は慶良間諸島を占領した。私たちの所には、まだ上陸してなく、夕方、慶良間諸島を見ると、米軍が灯けた電燈のあかりがともり、まるで他国のような感じがした。その後、しばらくすると、毎日のように、本島へ軍艦からの艦砲射撃が始まった。慶良間諸島と本島間の敵艦は、船から船へと渡り歩けるのではないかと思う程の数だった。本島をとり囲んだ船から、朝夕、攻撃が行われた。 その後、首里が次第に攻められ、やむなく日本軍は南部に退却した。それからは連日のように米軍は勝ち進み、日本軍は後方へ後方へと退って行った。 ここ豊見城は、1日ぐらいで米軍は通り過ぎたのではないかと思うほどの快進撃だった。 日本軍はもう逃げているので、本村内での戦闘はあまりなかった。首里方面での戦闘の時、夜、首里あたりの空を見ると、敵の照明弾の灯が、まるで花火のように、又は、空に電灯がついたように、あちこちに見られた。 上田からは、米軍の物なのか、日本軍の物なのかよくわからないが、とにかく、双方が撃ち合う弾の音が、ゴンゴンとかゴロゴロとか、まるで遠くで雷が鳴っているような感じで日夜聞こえていた。 私たちは親せき同志で防空壕を掘ってあったので、艦砲射撃が始まると、家は危険だということで、壕の中で寝泊まりした。米軍は戦争中でも昼食時の約1時間、夕食時の約1時間は攻撃の手を休める。幾度かの経験から、その時間になると安全だと知り、元気な若者は、いも畑に行って食糧を調達し、女性たちは、それを炊いて、みんなに食べさせた。その時間帯でも、時々、敵の偵察機が飛んで来ることがあるので、煙を出すと攻撃される恐れがあるので、細心の注意を払っていた。米軍が食事をする時、私たちも食事をとったのである。たまには、栄養補給のため、家畜の山羊やアヒルなどをつぶして、みんなで分け合って食べることもあった。 昼間、弾が飛んで来るのは見えないが、夜の場合は、誘導弾というのか、最初に撃つ弾は、赤く尾を引いて飛んで行く。その灯が落ちたあたりを一斉に攻撃した。撃った弾が上田から遠い所、例えば、東風平とか、南風原、糸満方面に行くのなら、ザザザザザーというような音をたて、本当に遠くに行くような感じがした。近くに落ちる場合は、発射音と同時にヒュッという音がした。これが一番こわくて、避けようがなかった。 首里あたりの戦闘中に、米軍の迫撃砲が豊見城まで届き、その攻撃を受けた。迫撃砲は、一度に5、6発の弾が飛んで来る。花火を打ち上げるように筒に弾を込めて撃ち出す。これも大変こわいものだった。遠くに行く時はザーという音がし、近くの時はフーッという音と共にグァングァンと音を立て、約100メートル間隔ぐらいの場所で、さく裂した。 壕生活中の最も悲しい出来ごとは、祖父の死だった。祖父は胃腸病を患い、充分な薬も食事もなく、苦しみながら壕の中で亡くなった。艦砲射撃の止んでいる時間に、オーダー(モッコ)に死んだ祖父を座らせ、叔父たち二人で担ぎ、私は水と野の花を摘んで、オーダーの後を追って門中墓に行き、墓の中に座ったままの姿の祖父を置いて墓の戸を閉じたとたん、墓の上方の森で弾がさく裂した。射撃が始まったのだ。私たちは必死に駆け出し、やっとのことで3名無事に壕にたどり着くことが出来た。 敵が真玉橋あたりまで来たという情報が入ったので、私は、祖母、親せきの人たち、さらに区民合わせて60名位だったが、集団で南部に移動を開始した。初めは、阿波根にある、大きな自然壕に入り、1週間ばかり過ごした。その壕の中には湧水もあり、奥は大変広々としていた。私たちが入る前は、日本軍の野戦病院として使用されていたらしいが、私たちが入った時には、みんな南下して誰もいなかった。ある日のこと、一人の人が食糧を探すため壕から出てみたら、米兵の姿が見えたと駆け込んで来た。「ここは危険だ」と、大急ぎで外に出て、南へ南へと下った。とうとう喜屋武岬まで来てしまった。そこでは、陸から米軍が攻めて来るし、海からは弾が飛んで来て、私たちの周辺や頭上で爆発するのもあって、破片がバラバラと落ちて来る状況だった。そんな時、米軍の船が海岸近くまで来て「米軍だって殺しはしない。早く出て来ーい」とスピーカーで投降を促していた。スピーカーで「殺しはしない」と放送しながら、他の船からは、どんどん弾を撃つものだから、「これはだましている。出たら殺される」と岩穴から誰も出る者はいなかった。良いかくれ場所もないので、溝にかくれたりしたが、水のある所まで500メートルほども離れており、その井戸の近くでやられた。ここでも、米軍の昼食時をねらって、飲み水だけ汲んで来た。さらに攻撃が激しくなり、水汲みが出来なくなると、さとうきびを食糧と水がわりにした。米は少々持っていたが、水がなく、ごはんを炊くことが出来なかった。ある日、海岸近くにいる時、海水でごはんを炊いた。あまりの塩辛さに誰2人、二口と食べる者はいなかった。4、5日をさとうきびだけで過ごした。毎日のように死傷者が出るので、どうせ死ぬなら上田に帰ろうと、敵のいる方向に逆戻りをした。途中、真壁村の糸洲、小波蔵あたりまで来たら、敵の戦車隊や歩兵たちが、火炎放射器で、部落内の残った民家などを全部焼き尽くしていた。あまりの恐ろしさに私たちは後退し、夏の暑さで、すっかり干上った、やや深めの溝があったのでそこに全員逃げ込んだ。その時、米兵の一斉射撃を受けて、私は左大腿部を貫通された。 誰かに、後から棒で強打されたような感じだった。「アレッ」と思って、走ろうとしたが、足はひん曲がっていて、一歩も進むことなく地面にたおれた。誰か知らないが、1人の人は死亡したらしいが、負傷したのは私1人だった。私は助けを求めながら、草をつかみ、ひざで地面を這いながら、みんなの所に行こうとした時に、従兄の大城〇〇〇さんが溝から駆け出して来て、私をおぶって溝まで運んで下さった。そこで応急処置をしてもらった。日が暮れ、米兵も前進しなくなったが、まだ近くには彼らがいるので、名城の海岸に下りて行き、海沿いに糸満を通って豊見城に帰ろうという計画で、〇〇〇さんにおぶさって名城の浜近くまで行ったがそこで、30分ばかり休んで、出発しようとしたら、前方から来た米兵と鉢合わせになった。みんな手を挙げると、彼らはうなづき、手まねで、後方に行くように指示した。〇〇〇さんが私をおぶろうとしたが、その時分から足はトウガン(シブイ)のように腫れあがり、痛くてすこしでも手を触れることが出来なくなっていた。出血はひどいし、激痛のため「私は死んでもよいから皆さんは先に進んで下さい。私はもう駄目ですから」と言った。みんなで、連れて行くと言われたが「この痛さは、これ以上我慢出来ない。じっとしていた方が楽だから、気にしないで早く先に行って下さい。」と言ったので、仕方なく親せきの人たちは、祖母の手を引っぱって前進しようとしたが、祖母は「この子一人を残しては行けない」と私の側を離れようとしない。止むなく村の人たちは、名城部落の方へと去った。一夜、祖母と2人、散兵壕に身をひそめていた。次の日の夕方、5、6名の米兵に見つかった。彼等は、銃を2人につきつけ、手まねで「そこから出ろ」と言った。私も同じく手まねで「足をケガして出られない」と言うと、米兵はうなづき、衛生兵だったのか、薬袋からチューブの先に注射針がついている物を取り出し、私の腕に注射してから、使用済の注射針を私の上衣の袖に通し、折り曲げて落ちないようにした。これは後続の兵たちに、処置をしたという印だったようだ。一人の兵士は、自分の水筒から水を飲ませてくれ、もう1人の兵士はポケットからキャラメルを取り出して、私に差し出した。しばらく、遠慮していると「毒入りと思っているな」と感じたのか、箱の中から一粒を取り自分の口にほうり込んでから、私にくれた。「たとえ毒入りでもいい、どうせ遅かれ早かれ死ぬんだから」と彼等が去ってから食べた。なんとも言えぬ程のおいしさだった。彼等が去る時、手まねで「ここを動くな。夜が明けたら君を助けに来る」と言った。もう1人の兵士は祖母に「ケガ人はそのまま残して、あんたはみんなの所に行きなさい」と指示した。祖母は別の集団と一緒にさせられた。私は一晩中、1人で野宿していたが、明け方になると、はげしい喉の渇きをおぼえた。頭を上げて、あたりを見廻すと、50メートル程前方に井戸らしいのがある。無我夢中で、1時間ほどもかけ、痛む足を引きずりながら這って行ったら、天の助けか水を満々と湛えた井戸だった。草の葉で水を汲み、腹一杯飲んだ。その後再び、1時間程かけて元の場所に戻った。散兵壕の中で、痛む足を抱きかかえるようにして座っていたら、昨夜の米兵達がやって来て、毛布に木の枝を刺し通して担架を作り、1人は、痛む足を静かに持ち上げ、1人は、両の脇に手を入れ、ゆっくりゆっくりと担架に乗せ、名城の浜から、米軍トラックの通る道まで運んでくれた。 それから、伊良波の収容所に送られた。伊良波では、負傷者、軍人、民間人と選り分けされ、各々のテントに収容されていたが、私は、その日のうちに米軍の赤十字車で、現在の沖縄市、嘉間良に運ばれた。そこで、一週間程米軍の手当てを受け、食事も豊富だったが、施設が整っている宜野座に移動させられ、レントゲンなどを撮られた。ここの食事は、朝11時頃、缶づめ大豆を約1合。夕方5時頃、塩おにぎり一個を20日ばかり、毎日同じパターンで食べさせられた。そうこうしているうちに、ギブスもまかれた。療養を続け、やっとのことでギブスをはずした後、9月頃だったと思うが沖縄に大きな台風が来襲した。テントでは危ないと上部の命令でベットに寝たままトラックに乗せられ、惣慶の海岸近くにある茅ぶきの長屋の避難小屋に連れて行かれた。この小屋は、民間人の収容小屋として使用されていて、中は、民間人で一杯だった。米兵は私たちを風があまり当たらない、軒下に降ろし、ベットを壁にくっつけてどこかへ去った。食事の配給もなく、毛布一枚を頭から被ってベットに横たわっていた。夜半から風が逆になり、どしゃ降りの雨と強風が私達を襲った。ベットは米軍の野戦用だから、雨水は、なかなか下に漏れ落ちないで、水が溜る。私は水びたしになりながら、傷口を左手で押さえ、右手で水を一晩中かき出した。約12時間後に台風は止み、やがて、米兵が迎えに来た。風雨に打たれている間に数名の雨はザーザー降るし、風は顔を叩くようにものすごく吹きつけるし、寒さとひもじさで「人生の中で、こんなにも苦しいことがあるのか」と思った。 台風後、もとのテントに戻ったが、足は骨折しているものだから、その傷から骨膜炎にかかった。その時分から沖縄人医師が治療に当っておられたが、その医師が「この足は切断したほうがよい。片足になっても、その方が治りが早い」と言われた。その当時は手足を骨折して、治療が長びきそうなものは、ほとんど切り捨てていた。幸い私の場合は、私の祖母の弟にあたる人が、その病院の内科医として務めていて、切断の話を聞き、主治医に「この子は歳も若いし、将来のある身だ。一生涯片足ではいかん。足のかたちだけになってもよいから、切除してくれるな」と頼まれた。現在、両足で歩けるのもその医師、大城盛昌氏のおかげである。足は切らずに済んだが、14歳になった時、具志川市の赤道に沖縄中央医院ができたので、そこに移され、やっと松葉杖を頼りに歩けるようになった。傷は完治してなかったが、足を切断するなと言って下さった大城氏が、豊見城で開業しており、「この傷なら診療所でも治療出来る」ということで退院させられた。16歳の時、骨膜炎にかかり、再度、沖縄中央病院に入院、40日間、手術と治療を受けた。その頃には、大阪から懐かしい母や姉、弟たちも引き揚げて来ていて、時々、見舞いに来てくれた。20歳前から、軍作業や畑仕事などが出来るようになった。25歳の時、私は結婚をしていて、長男も生まれていたが、骨髄炎にかかり、足が腫れて痛み出し、レントゲンの結果、手術しなければならないと、沖縄赤十字病院に入院し、一回目約2ヵ月間、半年後に約1ヵ月間の手術と治療を受けた。その後完治して、二度と病院のお世話になったことはないが、左大腿部の外側と内側の傷痕は未だに消えずに残っている。 (1996年10月聞き取り) |
| キーワード | 一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波収容所、大城盛昌(医師)、名城 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.725-731 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | 上田 宜保 直志(南部避難)_1_全文 |
| 出典2リンク | https://jmapps.ne.jp/tgda/det.html?data_id=1566151 |
| 出典3 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典3リンク | https://youtu.be/m_Ng5rsH6Qk?feature=shared |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 上田 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
