上田 宜保 直志(南部避難)_1_全文

ID1170151
作者宜保 直志
作者備考出身地「上田」、1932年(昭和7年)生、当時12歳(小学校6年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)上田_宜保 直志_「12歳の宜保直志さん。家族、友達が本土へ疎開する中、祖父母と家に残されます。迫る米軍。字の人々と南部へ逃れますが、足に大けがをおいます。歩けずに残った壕に近づくのは…」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/m_Ng5rsH6Qk?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
上田
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容昔の上田集落
(字上田は)たいへん静かな農村風景で、各家庭農業なんです、家畜もいるし
イモとかサトウキビとか、夕方になったら鳥の静かなさえずりが聞こえるし
時期によってはホタルも飛んで、本当に田舎っぽい村でした

軍事教育
昭和16年に入って、太平洋戦争が始まりました。その時分から(軍事)教育は学校でも教わって
体育の時間になったら竹やり訓練とか、体力を鍛えるようなものをさせられて
勉強も、させられたが、あまり熱がなかった

壕掘り
「君たちは、今日は、保栄茂の壕、上田の山の壕、そこへ行って兵隊さんの手伝いをしなさい」と
壕の中から落ちる土をザルに入れて
それを運搬して外に出すとか

松の皮はぎ
そこらへんの松(の木)は日本軍が、切り倒して、壕のわくとして使っていたんです
1本ずつ皮を剥いて、その手伝いですね、白アリがつかないように(松の)皮を剥くんですよ

与根飛行場建設
日本の軍隊が飛行場を作るといって、滑走路
名嘉地から翁長まで、この距離を埋めようとしたんです
この距離を埋めようとしたんですよ

城址の石運び
豊見城グスクありますよ、そこの城址の囲んだ石が
ここから向こうまで担がされたんです
海軍の兵隊が、イワシの缶詰を1つ
沢庵(たくわん)1欠片と、ご飯のおにぎり、これを1つずつ
常日頃からイモしか食べていないから
これもらって喜んで、もっとないかなぁって

家族の大阪疎開
大阪から、父が家族を呼び寄せたので、じゃあ家族も行こうという時に
おじい、おばあからお願いがあったみたいで
この長男をおいてくれということで、私、指名されて
じゃそうしようということで、母たちは大阪に行ったんです
自分ひとり海に放り捨てられたような感じで
4・5年生ぐらいですから
一晩中泣いたんです

学童疎開
学童疎開があったんです
だけど、おじいちゃん、おばあちゃんが止めたもんだから、私は残ったんです
母たちが大阪へ行った時と同じように、「あんたは行ってはいかんよ」と
私は行きたかったんです、みんな同級生が疎開するから

10.10空襲(十・十空襲)
朝の8時ちょっとすぎかな
"最初は,日本の飛行機が演習していると思ったら"
あとから那覇飛行場が燃えているから、おかしいなと思って
学校に行く途中だったから、みんな家に帰ったんです
ここは何ともないから、ウフモーに登って見学したんです
そうしたら那覇市が真っ赤に焼けてしまって、あれがいまだに頭にあります

米艦と特攻機
米軍の船は、100メートルごしに、いるんじゃないかというぐらいずっとつないで
米軍の船でいっぱいだったんです
夕方の暮れごろ、特攻機が来るんです、ほとんど毎日
私たちは森にウフモーに登って(見たら)、特攻が来るとき、米軍の弾が
焚き木を燃やしてこうしたら火花が散りますよ、あんな感じでボンボンボンボン
探照灯をつけて、特攻機に向けてこうやって、ボンボンボンボン撃つもんだから
見事なもんだよ、あれは、戦争というより、花火を見るような感じで、子どもだから
ああ、珍しいなとしか感じなかった

防空壕生活
敵が首里まで攻めてきて、日本軍が陥落する時期からは
壕の生活です、自分の家には帰らない
うちは、じいちゃん、ばあちゃんと私しかいないから、親戚と合同で(壕を)掘って
3つの家庭は一緒にこの壕で生活したんですけど
(壕は)T型、真っすぐではなく。弾が落ちた時、爆風とか
危ないから横穴に隠れたほうがいいということで

祖父の死
壕の生活で一番辛かったのは、おじいちゃんが壕の中で亡くなったことです
私は疲れてぐっすり寝ていたんです
隣のおばさんたちが起こして
「おじいちゃん亡くなっているよ」と言うから、目が覚めたら、亡くなっていて
棺箱もない、イモ運ぶモッコ(オーダー)に座らせて、おじさん2人で担いで急いでお墓に
墓は、昔のカーミークー(亀甲)墓なので
カナテコとかヘラを持って
私は急須で、お茶はないから水を持って
草花は、行きながら採って、お墓に供える、かたちでお送りしたんです、墓を開けて
その時も弾がビューっと来るから、危ないから、すぐおじいを墓に、開けて座らせて
硬くなっているから、寝ることもできない
だから座ったままでおじいちゃんはお墓に置いて
「おじいちゃん、こんな世の中だからごめんね、ここで極楽しなさいよ」と拝んで
墓を閉めて、すぐ走って帰ってきたんです。あれが一番きつかった

南部避難
(南部避難は)上田から約60人、親戚とか隣近所とかで
1人は、昔議員だった有力な方がいて、南部もよく知っているんです
この人の後について一緒に避難したんです
糸満の阿波根の壕にもいたし、「米軍が近くへ来ているよ」と言われて
またそれから南部に、名城とかに避難して行って
最終的には喜屋武岬まで逃げて行ってしまったんです
そこで散々やられて、喜屋武岬では
これ以上、ここにおれないから、みんな自分のシマに、集落に帰ろうということで
相談をして逆戻りが始まったんです

負 傷
小波蔵の手前で、上田に帰ろうと集団で行くと
米軍は、火炎放射器や戦車で家を焼いているわけ
山の上には兵隊がいっぱいいて、私たちを見たんでしょう
一斉射撃をされたんです。そこで私はケガをした
先輩が私をおんぶして
海岸べりから糸満を通って上田へ。という計画でみんな行ったんです
ここは敵がいるので、名城の方に行って
休憩している時に
私はもう動けないから、足がこんな腫れていたから
「私を置いてくれ」と頼んで、私は一人でいたんです
もう死んでもいいという感じだから
当時、足を骨折したら死ぬと思ったわけ。 私は
子どもながら、寂しいとか、死んでもいい、という感じで、別に苦しくはなかった
怖いと思わなかった。これだけは不思議です

治療 捕虜
そこで米軍と鉢合わせて、散兵壕の中に私が潜んでいたのを
(米兵が)銃を持って、私を見たら、小学校の5・6年生の子どもだから
銃を置いて、「デテコイ」
私は、できないと手まねで、ここをやられているからできないと手まねでやったら
こんなして、「見セロ」というから、見て、「大丈夫ネ」ということで
野戦用の注射器で、私の腕に注射して
注射器(のカラ)をここにさして、処置しました、という同じ米軍への知らせでしょう
私に「アンタハアト1日寝テカラ連レニ来ルカラ、ココヲ動クナ」と米軍は行ったんです
翌日、兵隊たちが4・5名来て、担架を作って、毛布を敷いて
床の木を担架の代わりにして、私を乗せて米軍のトラック、名城集落の道
そこまで連れて行って、米軍のトラックへ乗せて収容所に送ってくれた

ギブスの生活
(収容されたのは)宜野座です。野戦病院があったので、連れて行かれた
骨折していました、当時から米軍は、レントゲンもあったんです、治療するのに
テントの小屋だったんですけど、痛み止めの麻酔を打って治療して、ギブス
骨がこうなっていたものですから、これを伸ばして、外れないように
梁をとおして天井から吊るして、ベッドに引かせてあるんです
そうしたら外れないですよ、引っ張っているから。これで1か月やりました
その次は、またギブス
お腹から足までギブス巻かれて、これも1か月やったんですけど、傷が治らない
弾でやられているから
骨髄とか、腐れるように、中が、そんなことがあって、長いこといたんです

台 風
9月ごろに台風が来たんです
米軍もわかっていて、テントは吹っ飛ばされるから
患者をみんな避難させなさいと命令があったんです
私も避難させられて、惣慶漢那、海岸べりの集落
避難民がいっぱいして入れないわけです
米兵は担架から降ろして、この避難小屋であれば、風が向こうから来るからこっちがいいと
壁にくっつけてベッドを守ろうとしたんです
そうしたら夜明け頃から、風が変わって、ケーシ風(返し風)
今度はこの風になってしまったわけ、移動してくれる人もいない
そのまま、10時間ぐらい、ケーシ風に打たれて、私は布団をかぶって
寝て、手で傷を押さえて、米軍の野戦ベッドは水が溜まるんです
片手で水を漕ぎ出して、それを10時間もやって、水に浸かったんですが
運よく、年も若いせいか、元気者だったのか、これに耐えきれて
翌日、米軍が来て、病院にまた戻っていったんです

上田へ
上田に戻ってきて、これからは、松葉杖の生活だから仕事もつかなくてブラブラ
おばあちゃんと二人

共同作業・家づくり
戦後の復興はお互い同士で古い材料を集めたり
米軍の弾薬が入っていた箱をつぶして、壁にしたり
米軍の野戦用のテントを、壁の代わりにしたり
こんな家で、一時的には、やったんです

共同作業・食料
当時は共同作業で作物を、公民館に持ってきて配給
イモも、一家庭何名分という感じで、当時は、1年ぐらいはそんな生活でした

母の帰沖
大阪で(母が)私が生きている情報をどこかで聞いて
息子が生きているなら沖縄へ帰ろうと、戦後、2・3年で、帰ってきたんです

戦後・悔しさ
小学校の頃は大体スポーツは上位にいたんです
だけどこんなケガをして、どうにもならなくなって
同級生とかクラスメートとか、会うたびに
特に、体育大会とかには、もう見たくないほど
私もケガをしなかったら一緒にやったんだがという、思いがあって、悔しかった

次世代へ
(子や孫に戦争体験を)話しています。ケガしたり、小学校の5年ぐらいしか勉強やっていないので
そういった関係でよく話をするんです
今、平和で、やってきていますよね
この世の中が、いつまでも、末永く平和で
この先ずっと続けていってもらいたいと、そう思います

収録日:2017年(平成29年)12月7日

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