狩野探信守道

作者名よみかのうたんしんもりみち
作者名欧文KANO Tanshin Morimichi
生没年1785 - 1835(天明5 - 天保6)

略歴・解説

18世紀末から19世紀半ばに活躍した鍛冶橋家の画家。
狩野探牧守邦(たんぼくもりくに)(1762~1832)の長男として生まれる。幼名は千千代、初め宮内卿、後に式部卿と称す。字は清夫、興斎と号す。
寛政5(1793)年、徳川家斉に御目見。
寛政8(1796)年、父・探牧守邦の隠居により、12歳にして7代目当主となる。
文化8(1811)年度の贈朝屏風を制作。文政8(1825)年、法眼に叙され、文政11(1828)年、奥御用を仰せつけられる。
最晩年の天保5(1834)年には御医師並となる。
狩野養信『公用日記』には探信守道が数多の婚礼調度を制作したことが記されており、大和絵を得意とした探信守道の婚礼調度が高い評価を得ていた可能性がうかがわれる。
また、鍛冶橋家の祖である狩野探幽の作品に学ぶことを志し、探信守政以降、探幽様式から乖離していった鍛冶橋家の画風を刷新した。
探信守道は古典名画の模写にも注力しており、壮年期、狩野惟信、栄信の家で稽古したという『古画備考』の記述から、探信守道による古画の模写などにみる古典学習の基礎は、木挽町家に学んだものと推定される。探信守道が鍛冶橋家の画風を一新したことで、鍛冶橋家は復興し、幕末狩野派の中心メンバーとして活躍する画家を輩出した。
現存作品は80点近く確認されるが、作品が世界各地に散在しており、栄信同様、工房作や贋作も多く、その画業の全貌は明らかではない。代表的な作品としては、《井出玉川・大堰川図屏風》(静岡県立美術館)、《富士巻狩図屏風》(馬の博物館)、《紅葉賀図》(敦賀市立博物館)、《近江八景図》(リンデン民族学博物館)、《龍田川図》(東京国立博物館)のほか、《琴棋書画図(彦根屏風写)》や《平治物語 三条殿夜討巻(模本)》など、ボストン美術館に優品が数多く伝来する。

※安村敏信「幕末江戸狩野派異聞」(『日本の美術館三東京一』ぎょうせい 1987年)
 池田宏「狩野晴川院『公用日記』にみる諸相」(『東京国立博物館紀要』28号 1993年)
 安村敏信「狩野派の浮世絵」(『肉筆浮世絵大観五』講談社 1996年)
 江口恒明「近世後期における幕府御絵師の名順と身分編成」(『近世御用絵師の史的研究』思文閣出版 2008年)
 薄田大輔「鍛冶橋狩野家七代目狩野探信守道にみる江戸狩野派と風俗画」(『美術史』173号 2012年)
 『幕末狩野派展』(静岡県立美術館 2018年)

2021年『忘れられた江戸絵画史の本流―江戸狩野派の250年/江戸狩野派の古典学習―その基盤と広がり』、p. 167

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