狩野養朴常信

作者名よみかのうようぼくつねのぶ
作者名欧文KANO Yoboku Tsunenobu
生没年1636 - 1713(寛永13 - 正徳3)

略歴・解説

17世紀半ばから18世紀初めに活躍した木挽町(こびきちょう)家の画家。
狩野尚信の長男として京都に生まれる。
幼名は三位、通称を右近と言い、後に養朴(ようぼく)と称し、古川臾(こせんそう)、青白斎(せいはくさい)、塞雲子(さいうんし)などと号す。
慶安3(1650)年、父・尚信の死によって15歳で家督を相続し、2代目当主となる。同年、徳川家光に御目見。
万治2(1659)年、江戸城本丸御殿障壁画制作に参加。徳川家綱に重用され、度々御用を勤める。
明暦元(1655)年度、天和2(1682)年度、正徳元(1711)年度の贈朝屏風を制作。
天和2(1682)年には二十人扶持を拝領。
承応度(1654~55年)、寛文度(1662年)、延宝度(1674~75年)の内裏造営に、探幽、安信、益信らとともに参加した。
安信没後の宝永度(1708年)の内裏造営では、紫宸殿の賢聖障子絵を担当。
宝永元(1704)年、69歳にして法眼に、宝永6(1709)年には法印に叙される。
宝永7(1710)年、二百石の知行地を与えられる。
画業の最晩年に栄達を極め、後の木挽町家隆盛の基盤を作った。画風は伯父・探幽に倣うところが大きく、探幽様式の規範化、典型化を試みた。
また、膨大な模本、縮図や地取図の制作、倣古図や雑画帖制作において、当時の江戸狩野派のなかで、最も深く広く、探幽の仕事を継承した。
常信画とされる現存作品は数多く、四百点を超える作品が確認されるほか、膨大な数の模本(東京国立博物館蔵)、縮図(東京藝術大学蔵、京都国立博物館蔵など)を残している。探幽以外の江戸狩野派のなかでは最も研究の進んでいる画家ではあるが、先行研究で代表作と目された作品は様々で、工房作と見なされる作品を常信の基準作に挙げる研究者もいる。相当数の工房作、贋作が流通していることもあり、その画業全体の検証は未だ不十分である。
代表作としては、《山水図襖絵》(大徳寺玉林院)、《波濤雲龍図》(南禅院)、《瀟湘八景図襖絵》(三溪圉)、《山水図屏風》(弘前市立博物館)、《賢哲図像》(東京国立博物館)、《七福神図》(山種美術館)、《鳳凰図屏風》(東京藝術大学)、《四季花島図屏風》(知恩院)、《流書手鑑》(メトロポリタン美術館)などが挙げられる。

※松嶋雅人「狩野常信とその画業に関する研究」(『鹿島美術財団年報別冊』13号 1995年)
 松嶋雅人「狩野派における序列の問題-養朴常信の場合」(『芸術学学報』3号 1996年)
 安村敏信「狩野常信・周信の伝記と画業」(『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査』池上本門寺 2004年)
 中部義隆「江戸時代前期における江戸狩野派」(『江戸の狩野派―武家の典雅』大和文華館 2007年)
 安部美貴子「木挽町狩野家における常信の功績」(『聖心女子大学大学院論集』36号 2009年)
 小野真由美「狩野常信筆『草花魚貝虫類写生図巻』の制作背景―所収写生図の年代順の動向と被写体の提供者について」(『東京国立博物館紀要』49号 2013年)
 寺本健三「狩野常信筆『明皇花陣図絵巻』について(上・下)」(『史迹と美術』852・853号 2015年)
 薄田大輔「狩野常信様式の成立について」(『金鯱叢書』46輯 2019年)

2021年『忘れられた江戸絵画史の本流―江戸狩野派の250年/江戸狩野派の古典学習―その基盤と広がり』、p. 138

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