狩野洞雲益信

作者名よみかのうとううんますのぶ
作者名欧文KANO Masunobu
生没年1625 - 1694(寛永2 - 元禄7)

略歴・解説

17世紀半ばから後半に活躍した江戸狩野派の駿河台(するがだい)家の画家。
彫金家・後藤益乗の子として京都に生まれる。幼名は山三郎、通称は采女。号は洞雲、松蔭子(しょういんし)、宗深道人など。
幼時より松花堂昭乗に書を学び、好んで画を描いた。
寛永12(1635)年、狩野探幽の養子となる。
万治2(1659)年、江戸城本丸御殿障壁画制作に参加。
同年、探幽の実子・狩野探信守政、探雪がそれぞれ7歳、5歳となり、益信は35歳にして別家し、駿河台家の祖となる。
寛文5(1665)年、隠元隆埼(いんげんりゅうき)より洞雲の号を与えられる。
寛文7(1667)年、江戸屋敷を拝領。
天和2(1682)年度の贈朝屏風を制作。同年、二十人扶持を拝領。
寛永度(1641~42年)、承応度(1654~55年)、寛文度(1662年)、延宝度(1674~75年)の内裏造営に参加し、それぞれ中心となった探幽、狩野安信とともに活躍した。最晩年の元禄4(1691)年、法眼に叙される。
ポスト探幽の時代を担った主要画家であり、表絵師の各家成立に関する諸問題を考えるうえで最重要画家の一人である。
益信の現存作品は多く、合作を抜かして百三十点を超える作例が確認されるが、探幽や狩野安信、常信らとの合作には多くの重要作品を残しており、それらの作品を含めて画業の全貌を捉える必要がある。
代表作としては、《獅子図・虎図・花島図襖絵》(妙心寺大方丈)、《琴棋書画・四愛図襖絵》(大徳寺玉林院)、《帝鑑図・花鳥図・曲水宴図襖絵》(毘沙門堂)、《耕作図屏風》(聖聚来迎寺)、《年中行事図屏風》(東京国立博物館)、《朝鮮通信使図屏風》(泉涌寺)、《堀川夜討絵巻》(神奈川県立歴史博物館)などがある。

※前田香雪「狩野洞雲と其子孫に就て」(『美術之日本』5-2号 1913年)
 田中豊「寛永文化の一支流―狩野洞雲小考」(『史泉』50号 1975年)
 Elizabeth Lillehoj “A Gift for the Retired Empress”, in 𝘈𝘤𝘲𝘶𝘪𝘴𝘪𝘵𝘪𝘰𝘯: 𝘈𝘳𝘵 𝘢𝘯𝘥 𝘖𝘸𝘯𝘦𝘳𝘴𝘩𝘪𝘱 𝘪𝘯 𝘌𝘥𝘰-𝘱𝘦𝘳𝘪𝘰𝘥 𝘑𝘢𝘱𝘢𝘯 (Art Instituite of Chicago. Department of Asian Art, 2007)
 榊原悟『狩野探幽』(臨川書店 2014年)
 門脇むつみ「第二章 次世代の画家たち」(『巨匠狩野探幽の誕生』朝日新聞出版 2014年)
 ロナルド・トビ「狩野益信筆『朝鮮通信使歓待図屏風』のレトリックと論理」(『国華』1444号 2016年)
 野田麻美「『記録画』の奥底に潜むもの―狩野益信『朝鮮通信使図屏風』の謎を読む」(『徳川の平和』静岡県立美術館 2016年)
 野田麻美「ポスト探幽世代の画家たちについて―狩野安信・常信・探信・益信・探雪『名画集』(個人蔵)の史的位置」(『静岡県立美術館研究紀要』32号 2017年)

2021年『忘れられた江戸絵画史の本流―江戸狩野派の250年/江戸狩野派の古典学習―その基盤と広がり』、p. 145

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