蒲生羅漢

よみがもうらかん
生年天明4年(1784)
没年慶応2年(1866)

解説

白河出身の画家。本名は藤田豹、のちに蒲生の姓を名乗ります。羅漢山人、在家菩薩などの号を名乗っています。
若年時の経歴は不詳ですが、10代で江戸に出て谷文晁の下で絵の修業をしていたことが分かっています。のちに白河藩主松平定信の文化事業に参画していることから、早く定信に見出され、谷文晁への入門を勧められたとみられます。19歳の時、定信の命により岡本茲奘・谷文一・星野文良とともに京都の石山寺に伝わる「石山寺縁起絵巻」の模写に携わっています。
現在、市内羅漢山の麓に「羅漢山人之伝」と題する石碑が立っています。天保14年(1843)に、援助者であった鏡石村(現鏡石町)大庄屋常松菊畦が建てたもので、羅漢の業績や人となりが記されています。絵については中国の宋・元・明の古画を学び、特に仏画を得意としたといいます。また、位の高い人物にも媚びることなく、10日酒を飲んで1日絵筆をとると言うほどの酒飲みであったことなど、豪放な人柄をうかがわせるエピソードが記されています。
羅漢は晩年までこの羅漢山の麓にアトリエを構えて作画を続け、文久3年(1863)に絵師に与えられる位階である法眼を授けられました。83歳で亡くなり、皇徳寺(白河市大工町)に葬られました。

この作者の資料一覧[全8件]

件ずつ表示

PageTop