熊坂 適山

人物名(ヨミ)クマサカ テキザン
人物名(英語)Tekizan KUMASAKA
人物名(別名)登、元、朗、晃郷、子述、元精、子蹟、昌三、昌三郎、波玉、摘山、適山、干水、仙亭、陶園、梨華、山房、通神草堂
国籍日本
出身地伊達郡市柳村
没地福山

略歴・解説

寛政8年(1796)、陸奥国伊達郡保原村市柳に生まれました。生家はかなり裕福であり、農業のほかに酒造を営んでいました。名を登、元または朗といい、字は晃郷、のち子述、元精と称し、晩年に子蹟と改めています。通称は昌三、または昌三郎。雅号は波玉、摘山、適山、干水、仙亭、陶園、梨華、山房、通神草堂などがあります。

 移封により蠣崎波響が梁川に来たことを聞き13、4歳のときに弟子入りしたとみられます。後に京都へ上り、南画家の浦上春琴に師事しました。

文政9年(1826)の波響の死後、適山は長崎の僧である鉄翁祖門や豊後(現在の大分県)の田能村竹田を訪れて教えを乞いました。鉄翁祖門は臨済宗の僧侶で、中国(清)の画家・江稼圃から指導を受けた長崎三大南画家のひとりでした。田能村竹田に会ったのは天保2年(1832)、適山32歳のときです。竹田が交際した友人たちを記録した『竹田荘師友画録』では、適山は酒を好み、だれとでも親しく飲み、酔ってはよく歌い、人になれなれしくすることが無かったといいます。また、適山が扇に蘭を書いたところ、なかなか風情があり、題詩もよかったと竹田は褒めています。

しかし、妻が病死したことを知らされた適山は、天保3年ころには保原村へ帰り、その後、師であった蠣崎波響の墓参のため松前城下にもやってきました。天保14年(1843)までは保原村で画業に専念したとされ、弘化元年(1844)には松前藩の客分御抱絵師として150石を賜ることになりました。このとき、適山は梁川の関根加賀少輔の娘・登野と再婚しており、妻を伴って松前城下に3年間居住したのち保原村に帰郷。幕末の安政2年(1855)、再び梁川周辺が松前藩領になると、適山は勘定方として召し抱えられます。万延元年(1860)には江戸藩邸の御抱絵師となり、元治元年(1864)に松前で没しました。69歳の生涯でした。

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