コンスタンチン・テレスコヴィッチ

作家名(よみ)こんすたんちん・てれすこう゛ぃっち
作家名(英語)Konstantin TERESHKOVITCH
生地メシェルスコエ (ロシア)
生年1902
没地ロクブリュヌ=カップ=マルタン (フランス)
没年1978

作家解説

1911年からK.F.ユオン、I.I.マクシーモフ、F.I.レルベルクの子供アトリエで絵を学ぶ。1913年にシチューキンの画廊で初めて印象派やゴッホやマティスの作品を見て強い衝撃を受ける。正規の学業を終えてから1917年にモスクワ絵画彫刻建築学校(P.V.クズネツォフのクラス)に入学するが、革命と内戦によって学業は終わり、フランス行きを決意。赤軍の志願兵として入隊し、シベリアやウクライナで働いた後、バクー、コンスタンチノープル、マルセイユを経てパスポートもお金もないまま1920年にパリに着く。ラリオーノフと知り合い、シャガールやス―チンと親しくなる。アカデミー・ドゥ・ラ・グラン・ショミエールで絵画を学び始め、サロン・ドートンヌやアンデパンダン展をはじめとする各種の展覧会に出品。1927年に初個展。1920年代末には著名なコレクターが作品を買い始めるようになる。1933年にフランス人女性と結婚し、二人の娘を授かってからはこの三人が主にモデルを務めた。人物画の他にも、パリ郊外の庭園、セーヌ河やマルヌ河、静物画や風俗画を描いた。1930年からは、ス―チン (1933年)、ボナール、スゴンザック、ルオー、ブラック (1941年)、ファン・ドンゲン、ユトリロ (1942年)、ドラン (1943年)、デュフィ (1948年)などフランスやロシアの画家の肖像画を描いている。1933年にバレエ・リュスの舞台美術を担当する。1939年に外人部隊に入隊してレジスタンス運動に参加。1942年に市民権を得、復員後の1945にパリ郊外に庭付きのアトリエ兼住宅を購入。1940年代後半から各地で展覧会が行われるようになる:パリのベルニエ画廊 (1948年、51年、53年、54年、61年)、ペトリデス画廊 (1953年、58年、62年、69年、71年)、チューリヒ (1949年)、ヘルシンキ (1953年)、ロンドン (1958年)、ニューヨーク (1961年)、東京(1968-69年)。フィンランド、チュニジア、アルジェリア、メキシコ、アメリカで長期にわたり活動。絵画だけでなく、タペストリーをデザインしたり、陶芸や家具の絵付けに携わる。同じ頃、本の挿絵にかかわる。1949年にチューリッヒでリトグラフの技法を習得し、『娘たちに捧ぐ』(1949年)、『1860年のロシア将校たち』(カラーリトグラフ、1950年)、『騎手たち』(1959年)などの挿絵を制作。ホーソン『ミノタウロス物語』(1954年)、トルストイ『ハジ・ムラート』(1955年)、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(1955年)、ブーニン『秘められた愛』(1963年)、チェーホフの三つの物語(『子犬を連れた奥さん』、『可愛い女』、『浮気な女』、1965年)の水彩挿絵を手がける。

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