平澤九朗(初代)

制作/生産地・窯・作者名(よみ)ひらさわくろう(しょだい)
制作/生産地・窯・作者名(英語)HIRASAWA Kuro 1st
生年1772
没年1840

略歴・解説

尾張藩士平澤九朗は、名を一貞、通称清九朗。九朗と号した。四百石を与えられ、御目付、高須藩番頭などを務め、文化11年(1814)に退隠。その後は到仕後に設けた養老園(名古屋市北区清水坂下)に草庵を結び、今昔庵と名付けて有楽流の茶事を楽しみとした。一方、邸内に轆轤3基を備え、窯を築いている。陶土は、瀬戸、赤津などから取り寄せたほか、赤津の御窯屋加藤春岱、唐三郎などに手伝わせることもあった。
長子・一胤(~1841、文政8年家督を弟に譲る。号陶斎)や、次子・住胤(~1865、兄の養子となる。天保15年正月に九朗と改名。号松柏)も父の作陶を手伝ったとされ、他の趣味の作家たちと異なり本格的であった。『金府繫栄風流選』に「九印本業」として紹介されるほど評価が高く、人々は珍重して九朗焼と呼んだ。九朗は、古瀬戸釉を得意としたが、志野、織部、唐津、南蛮、楽など各種の釉法を熱心に研究し、巧みに使いこなしている。
九朗(住胤)は、御小納戸役として萩山焼や江戸の戸山焼・楽々園焼に関与した他、市江鳳造などに作陶指導をしている。九朗父子の作品には「く」「九」「九朗」箆彫銘、「松」印銘などが認められる。

(略歴・解説は『名古屋のやきもの―茶どころに華ひらく陶芸文化―』1995、愛知県陶磁資料館より)

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