生田 萬

じんぶつ名(ヨミ)いくた よろず
生年月日(西暦)1801
生年月日(和暦)享和元年
没年月日(西暦)1837
没年月日(和暦)天保8年

略歴・解説

館林藩士信勝の長男。儒学を学ぶと藩の腐敗政治を批判し、尊皇敬神を待望する。28歳藩政改革意見書である「岩にむす苔」を藩主に提出し藩を追放される。平田篤胤の氣吹舎で塾長となるがその後篤胤家を離れ、転居する。萬の指導を受けた柏崎の神官樋口英哲は萬の学殖を慕い、萬を和学振興のため柏崎へ招き、萬は桜園塾を開いた。当時天保の大飢饉で米価が高騰、町民は困窮。これは陣屋役人が商人の米の津出しを禁止しなかったからである。萬はこのことに憤慨し、同志5人と謀り、天保8年(1837)6月「天命を奉じて国賊を誅す」の旗を先頭に陣屋へ斬り込む。このくわだてにより米の相場は下がり、救援米が町民に放出された。生活苦の中で各地を旅し、天保7年(1836)国学を論じた「古学二千文」は思想を知る貴重な書である。

このじんぶつの資料一覧[全6件]

件ずつ表示

PageTop