中山家文書 市史No12 塩竃屋敷検地覚
資料名(よみ) | ナカヤマケモンジョ シシナンバージュウク シオガマヤシキケンチオボエ |
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時代 | 正保4年 |
世紀 | 1647 |
素材 | 紙本墨書 |
解説 | 『敦賀市史史料編第4巻上』745頁より「中山正彌文書」解説(抜粋) 中山氏はもと今井氏を称し、中世には比田浦の刀祢であった。由緒書によれば、慶長4(1599)年七郎左衛門直忠の子が早世したため、中山次左衛門直治が入聟し、これ以降中山氏を称することとなった。中山直治は、越中朝日城主であり、佐々成政に属したが、成政没落後浪人して越前坂井郡和布浦に住し、慶長6年頃、南条郡大谷浦の向山次郎右衛門の仲介で、比田浦の今井家に入った。中山氏は、近世初頭には「郡中惣庄屋」と大比田浦の庄屋とを兼帯したが、寛永末年に惣庄屋を免じられた。天和2(1682)年鞠山藩の成立にともない代官に任ぜられ、さらに宝暦9(1759)年鞠山役所による直接支配が始まると大庄屋の一人となっている。 大比田浦は、中世には元比田浦と合せて比田浦と呼ばれていた。大比田と元比田との二つの浦に分れた年代は確定できないが、少なくとも慶長3年には分かれている。なお慶長11年頃の越前国絵図には、比田浦と記されている。 |
受入年度 | 平成2年 |
所蔵館 | 敦賀市立博物館 |
大分類 | 歴史 |
中分類 | 古文書 |
小分類 | 敦賀 |
資料No. | 0090 |
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