| 資料名(よみ) | せながぐすく |
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| 資料名(別名) | |
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| 地域名称 | |
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| 説明 | 瀬長島は、豊見城市西岸から沖合約600mに浮かぶ周囲約1.5km、最標高約30m、面積約18haの島である。戦前まで約30戸が北側平野部(現・野球場一帯)に集落を構え、半農半漁の暮らしを営む有人島であった。<BR> <BR> 太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残る。<BR> <BR> 島内にはかつて瀬長グスクがあり、瀬長按司が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記』の中で、「瀬長按司ハ王位ノ御婿ニテ・・・(巻8)」、「往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ・・・(巻12)」)と記述されている。これまでに中国製青磁や陶器・グスク系土器などが出土している。<BR> <BR> 地元では古くから島を別名「アンジナ」と呼んでおり、按司のいる砂島がアジシナシマへ転訛し、それがアンジナになったとも伝えられている。<BR> <BR> 1719年(康煕58)に来琉した中国の冊封副使・徐葆光は、瀬長島を訪れた際の様子について、『遊山南記』の中で、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子など、その変化に富んだ景観を讃えている(『琉球国使略』)。また、昭和11年には沖縄八景の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚な景勝地であった。<BR> <BR> 1944年(昭和19)、沖縄戦に伴い住民らに島外退去が命ぜられ、引き続き戦後も島全体が米軍基地として接収されることとなった為、やむなく島民は対岸で集落を構えざるを得なかった。このときの基地建設工事で島は大きく削り取られ、また、島と本島および空港とをつなぐ2本の海中道路が取付けられるなど景観は激しく変貌した。島は、長らく米海軍弾薬貯蔵基地として使用され、1977年(昭和52)には返還された。<BR> <BR> 戦前まで島内には、瀬長グスクの遺構を始め、子宝祈願とともに誕生する新生児の性別を占った「子宝岩(イシイリー)」、さらに『琉球国由来記』にも記述のある瀬長ノ嶽など多くの遺跡や拝所、井泉等が残り、信仰の対象として各地から参拝者が訪れていたが、戦後は立入禁止となり遺構の多くが基地建設と同時に破壊され往時の面影はほとんど残されてない。対岸のアカサチ森に遥拝所が建てられ、島内にあった拝所、井泉等が集合移設されている。アンジナムヌメーや浜下りは、瀬長島とゆかりのある行事であり、また、男女の恋愛を題材とした組踊「手水の縁」の一幕も、瀬長島が舞台設定であると言われている。 |
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| 大項目 | 埋蔵文化財 |
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| 中項目 | グスク |
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| 小項目 | |
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| 細項目 | |
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| 総体1 | |
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| 総体2 | |
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| 総体3 | |
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| 資料状況 | |
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| 大きさ | 約43,000㎡ |
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| 重量 | |
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| 員数 | |
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| 素材・地形・媒体 | 丘陵地 |
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| 形状 | |
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| 国名 | 日本 |
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| 都道府県名、州 | 沖縄県 |
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| 市町村、群、区 | 豊見城市 |
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| 地域名1 | 瀬長 |
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| 地域名2 | |
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| 緯度・経度 | 26.174591, 127.642727 |
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| 場所名 | |
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| 地図 | |
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| 現所在 | |
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| 時代・時期 | 近世琉球 |
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| 年月日(始) | |
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| 始期(年・西暦) | |
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| 始期(年・和暦) | |
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| 始期(月) | |
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| 始期(日) | |
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| 出典1 | 豊見城市教育委員会 2013 『瀬長島(瀬長グスク)』 文化財説明板 |
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| 出典2 | 豊見城村村史編纂委員会 1964 『豊見城村史』豊見城村役所 |
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| 出典3 | 豊見城村村史編纂室 1998 『豊見城村史 第九巻 文献資料編』豊見城村役所 |
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| 出典4 | 豊見城村教育委員会 2002 『豊見城村の文化財(増補)』豊見城村教育委員会 |
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| 出典5 | 豊見城市市史編集委員会 民俗編専門部会 2008 『豊見城村史 第二巻 民俗編』豊見城市役所 |
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