豊見城グスク
| 資料名(よみ) | とみぐすくぐすく |
|---|---|
| 資料名(別名) | |
| 地域名称 | |
| 説明 | 「 字豊見城集落の東北側にある丘陵上に形成されたグスクであり、現在は民間企業によって公園として管理されている。東側に饒波川、北側に漫湖を望む位置にグスクがあり、東側と北側は崖となり、西側は急斜面となっている。南側は穏やかな平地となっている。村史によれば、このグスクの城主は後に山南王となった汪応祖といわれ、最終的には中山によって、火攻めで落城したことが記載されている。さらにグスクの規模や特徴などを記している。これによると面積は11,079 坪(約36,624 ㎡)で、南北に長く、南には南風原門、北には西原門があり、城壁は小さい野面積みとなっていたということを記している。本グスクは、三の郭からなる連郭式のグスクと考えられている。前回の調査では比較的新しい時期と考えられる灰色瓦が採集されている。今回の調査では城趾公園敷地内での調査の許可が下りなかったため、調査を実施することができなかった。しかし、公園周辺を調査することは可能であったため、調査を実施したところ、沖縄産陶器・瓦を僅かながら採集することができた。前回の調査で掲載したグスクの縄張り推定図を第2図に示した。<BR> 『球陽』や『琉球国誌略』、『ペリー提督日本遠征記』でも紹介されている。」 豊見城市教育委員会文化課編 『豊見城市の遺跡―市内遺跡分布調査事業― 豊見城市文化財調査報告書 第9集』豊見城市教育委員会 2011年 「豊見城グスクは字豊見城集落の北東側 標高約54mの漫湖を眺望できる琉球石灰岩丘陵上に立地しています。グスクに関する伝承や記録は乏しいが、 14世紀末~15世紀初頭に南山王の従弟、 汪応祖がグスクを築き尚巴志によって落城したといわれます。 1719年には冊封使として訪れた徐葆光は荒れはてたグスクのようすを著に残しており 1853年にはペリー艦隊も訪れ城内より見た風景の挿絵を残しています。 グスクの遺構は城壁やアーチ門等が戦前までは残っていましたが 先の大戦や戦後の採石によって壊されてしまいました。また、 1962年頃には民間企業によって「公園」 として造成され、 現在に至っていますが 漫湖側には城壁の一部と思われる石積みが確認されています。 おそらく一帯には当時の生活跡が埋もれているものと思われます。 グスク内には豊見瀬御嶽や穂花御嶽、 殿、 カーなどがあり旧暦5、 6月のウマチーやハーリーウグァン、 雨乞いの神事が行なわれ、 王府編さんによる 『琉球国由来記』 と 『琉球国旧記』 にもハーリーウグァン 雨匂い時は豊見瀬御嶽を参拝すると記述されています。」 『豊見城村の文化財 増補』(2002) |
| 大項目 | 埋蔵文化財 |
| 中項目 | グスク |
| 小項目 | |
| 細項目 | |
| 総体1 | |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 資料状況 | 宅地等 |
| 大きさ | 約30,000㎡ |
| 重量 | |
| 員数 | |
| 素材・地形・媒体 | 緩斜面 |
| 形状 | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名、州 | 沖縄県 |
| 市町村、群、区 | 豊見城市 |
| 地域名1 | 豊見城 |
| 地域名2 | |
| 緯度・経度 | |
| 場所名 | |
| 地図 | |
| 現所在 | |
| 時代・時期 | 古琉球_グスク時代 |
| 年月日(始) | |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 出典1 | 豊見城市教育委員会文化課編 『豊見城市の遺跡―市内遺跡分布調査事業― 豊見城市文化財調査報告書 第9集』豊見城市教育委員会 2011年 |
| 出典2 | 『豊見城村の文化財 増補』(2002) |
| 出典3 | |
| 出典4 | |
| 出典5 |

