真玉橋 我如古 マサ子(沖縄県女子勤労挺身隊 兵庫県姫路) 1 全文

資料ID1567211
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目沖縄女子勤労挺身隊
資料名(別名)真玉橋_我如古 マサ子_「女子勤労挺身隊体験記」_1_全文
資料内容女子挺身隊へ入隊
 昭和19年2月中旬ごろ、字の書記から「本土へ渡って飛行機造りに行く人はいないか」という話があった。当時20歳で家の農業を手伝っていた私はさっそく同じ部落の友人と相談、すぐに2人とも本土行きを決意し、字の書記へそれを伝え、3日後には村役場から私宛て承認の通知が届いた。しかし両親に相談しても反対されることは目に見えていたので、私は家族に打ち明けることなく、内緒で出発することにした。
2月下旬ごろ、私たちは少しばかりの着替えを持って身支度をし、真玉橋駅から那覇市久茂地にある開洋会館に集合した。豊見城村からは、字真玉橋から私と友人の2名、字長堂から5名の計7名が参加、県下、おもに中南部から105名の女子青年が集まり、その名も「沖縄女子勤労挺身隊」として発足した。

 挺身隊の小隊長に
 挺身隊は一小隊5班編成で2つに分けられたが、そのとき私は第二小隊の隊長を言い付けられてしまった。当初は大変困り果て、断ろうかどうしようか、心配ばかりしていたが、任命された以上自分なりに頑張ってみようと引き受けることにした。
 開洋会館での毎日の訓練は厳しいものだった。早朝6時に起床しすぐに朝礼点呼。朝食後には会館の敷地内で兵隊同様、「整列」や「行進」、「号令」「敬礼」の仕方を何度も何度も繰り返し教わった。県庁の方と思われる男性が私たちの指導にあたっていたが、動作の一つひとつに対して「もっと機敏にするように」と厳しく注文を付けた。そのような訓練が2週間ほど続き、いよいよ出発という前日の午後、私たちに一時帰宅が許可された。実家に帰ると父は畑からまだ戻っておらず、母と祖父、兄弟らがいた。私のことを特に可愛がってくれた祖父が、遠い本土へ行ってしまう私を見つめながら、唇を震わせ、寂しそうな表情を見せていた。それが私には大変つらく、済まない気持ちでいっぱいだったが、家族らに別れを告げると実家を後にした。

 兵庫県姫路へ
 そしていよいよ出発の日。辺りもまだ薄暗い早暁、私たち挺身隊を乗せた船は那覇港を出発。私たちは船底の広い船室に入れられ、その間、無断で歩き回ったり大きな声を出すことを一切禁じられた。偶然にも船中に同じ字出身で私より後輩の男の人が一人乗船していた。お互い驚いた表情を見せながらも小さい声で挨拶を交わした。聞けば特攻隊に志願したとのこと。私たち挺身隊以外に若い青年らの一団もこの船に乗り込んでいることを知った。航海中はいっさい甲板上に出ることを許されなかったので、時間の経過も分からなかった。2日か3日間の航海中、「前の船がやられた」という噂もどこからともなく船内に流れ、いつ自分達の船がやられるのか、不安と緊張の連続だった。
 船団は昭和19年3月31日夕刻、鹿児島に到着。「無事着いた」と喜ぶのもつかの間、そのまま夜行列車で兵庫県姫路へと向かった。 姫路駅に着くと一般工員として既に現地の工場で働いている沖縄出身の仲宗根さんという方が数名の方々と一緒に私たちを出迎えてくれた。私たち挺身隊一行は、仲宗根さんらに案内され、市内延末町にある龍田工業株式会社へ着任した。敷地内に寄宿舎があり、七名一組に部屋があてられるなど、私たちを迎えてくれた会社側の好意にまずはほっと一安心した。その後社長さんからいろいろとお話しがあり、翌日から3日間休暇が与えられた。市内見学もさせていただき、姫路城の満開の桜が私たちの目を楽しませてくれた。

 連日の空襲警報のなかで
 休暇も終わり私たち挺身隊にいよいよ勤労作業が割り当てられた。毎日、朝5時半に起床、整列行進して近くの護国神社へ戦勝祈願のため参拝することから1日がはじまる。その後、午前8時から午後5時までが工場での作業であった。私たちが携わったのは飛行機の接続部分のパッキン製作である。蚕からとった糸の塊を、機械で圧縮して延ばし、さらに天日干ししてそれを型にはめ込んで、いろいろな形のパッキンを作り、最後に梱包するまでの作業行程をそれぞれ分担して行っていた。夜は寄宿舎内で舎監や事務員の方から時局や工場生産に関する訓話などを受け、戦争に必勝するまでは一生懸命頑張ろうと皆で誓い合ったが、日が経つにつれ、親元を離れて暮らす寂しさについ涙がこみあげてくることもあった。 昼間は毎日というほど空襲があり、心臓が張り裂けんばかりの緊張の連続だった。空襲警報が鳴り響くたび、作業を止め、工場敷地内にある防空壕に避難した。近くにある別の会社の工場が空襲でやられたとか、同じ工場に勤める一般工員の方が出勤途中で亡くなったなどの情報も時々私達の耳にも入ってくる。次は自分たちがいつやられるのだろうと、こればかりを考えていた。
 私は空襲のとき、皆んなを防空壕の奥へと先に押し込め、自分は入り口付近でじっとすることが多かったが、内心は怖くて仕方なかった。それでも小隊長という責任上、皆んなを守ることで毎日頭がいっぱいだった。

 沖縄空襲の一報
 ある日、会社の事務所から私に呼び出しがあった。姫路の役所から隊長研修会が開催されるので、挺身隊からは私に参加するように、とのことだった。日程は10月7日から10日までの4日間。私は早速支度をして会場となる、須磨明石にほど近い塩谷錬成道場へと出掛けた。初日、研修会場に着くと50人くらいの人達が既に集まっていたが1人の知り合いもおらず、少し心細くなった。
まず全体会議があって研修についての説明があった。上司に対しての心構えや隊員の世話について、さらに空襲の時の対応方などいろいろなことを教わった。そして、いよいよ最終日の10日、今日で研修も終わり寄宿舎へ帰れると喜んで朝の集いの準備をしていたら、ラジオから「沖縄が空襲を受けた」との放送が流れはじめた。何とも言えぬ不安にかられ、胸の高鳴りとともに私は次第に涙が溢れ出してしまった。顔をうつ伏せすっかりふさぎこんだ私のところへ先生がお見えになり「金城さん、沖縄が空襲されたそうですが、ご家族はきっと大丈夫ですよ」と慰めて下さり、さらに「今日の朝の集いは休みなさい」とまでおっしゃって下さった。しばらくしてたくさんの研修生の仲間たちも私のところへやってきて慰めの言葉をかけてくれた。先生はその後も私に気を使って下さり、近くの洋食屋で食事を御馳走してくださった。周りの方々の心遣いに感謝の気持ちでいっぱいだった。
 研修日程をすべて終え、寄宿舎へ戻ることとなった。今頃皆んなも沖縄空襲のことで心配していることだろう、と帰路の汽車の中でそのことばかりが頭をよぎった。寄宿舎へ着き、皆んなの顔を見るなり、涙がとめどなく溢れ出してきた。「空襲は那覇市内と小禄飛行場だけだったそうですよ」「家族が元気でいることを祈りましょうね」と故郷とそこにいる肉親の無事をお互いで祈りながら励ましあった。

 敵機の攻撃を受ける
 空襲が頻繁に続くなか、これまで大きな被害を受けることなく操業を続けていた私たちの工場にも、とうとう米軍機の本格的な攻撃があった。それは昭和20年7月3日、早朝4時頃のことである。いつもと違い爆音が異常に近く感じた。すぐに寄宿舎の窓から外を見ると、敵機が低空の体制で私たちの方向に向かい突っ込んでくるようだったので、私たちは着の身着のまま咄嗟の判断で、部屋から飛び出し敷地の外側にある田んぼの中へと飛び込んだ。常日頃から敵機が低空で攻撃を仕掛けてきた場合には敷地内の防空壕に避難せず、半里ほど離れた手柄山に避難するよう申し合わせがあったが、そのような余裕もなく、とにかく工場敷地の外に飛び出すのが精一杯だった。空襲のあいだ中、私たちは身体の半分ぐらいまで田んぼの水に浸かりじっとしていた。やがて爆撃の音が止み、顔を上げると、ちょうど東の空が明るくなってきた。この空襲で私たちの工場と寄宿舎は跡形もなく焼き出されてしまった。避難先となっていた手柄山も敵機の猛烈な攻撃を受けたらしく、町の中を二人組の人が全身大やけどを負い、服はぼろぼろ、皮膚も真っ赤に焼けただれ、幽霊のように手を前に垂らしてふらふらと歩く姿を見かけた。誰かが「あれは手柄山に逃げていた夫婦だ」と言っていたが男女の区別もつかないほどの状態であった。
 しばらくすると、会社の上司が私たちのところへ駆けつけてきた。「皆んな無事でよかった。宿舎も空襲でやられたので、皆さんはここから一里離れたお寺に泊まることとなっているので行きましょう」と案内された。翌日からは寺から会社のほうに通って後片付けをするようにと言い付けられた。それからは毎日、寺と会社を往復し、瓦礫と化した工場の後片付けでまた忙しい日々が続いた。10日ぐらい経ってから、皆んなで相談し工場跡地にトタン葺きの小屋を立て、そこで寝泊まりできるよう申し入れた。食事の支度はすべて自分たちで行うこととし、米や野菜などは用立ててもらえるよう要請、会社のほうも私たちのこのお願いを聞き入れてくれ工場敷地内で暮らすことができた。いつものように片付けの作業をしていたある早朝のことである。「ピカッ」と空の一部が眩しく光り、ドーンという大きな音がした。その閃光が、広島に原爆が落とされた瞬間だったということを知ったのは後になってのことだった。

 終戦の知らせ
 昭和20年8月15日、終戦の知らせとともに、日本が負けたということが私たちのもとにも伝わってきた。挺身隊全員が「ウソだ、ウソだ」と騒いでいると、会社の上司がやって来て「本当だ」と告げた。日本の必勝を信じ、歯を食いしばってこれまで頑張ってきたのにと、悔しさと虚無感が私たちを襲った。その日私たちは目が腫れるまで泣き続けた。
 45日経ってから、工場長が私たちのところへ来て、「親戚や知人が本土にいらっしゃるならそこに行ってもいいですよ」と挺身隊の事実上の解散を申し渡した。沖縄は玉砕し、米軍の占領下に置かれていることは既に聞いていたので、そのときは沖縄にはもう戻れないと思っていた。挺身隊はその後、半数の50名余りの人が本土にいる知人などを頼って工場を後にし、残り半数の人たちはしばらく会社内で自炊生活を送ることとなった。しかし、毎日の食事も、炒った大豆の中にお米が数える程度の入った献立ばかり、次第に栄養不良で体調を崩す人も続出するなど惨めな生活ぶりだった。

 妹を尋ね熊本へ
 それから3カ月ほど経過したある日、私も、妹が熊本県内の山村に疎開していることを知人から聞かされ、さっそく妹を捜すため会社を出ることにした。敗戦で疲労こんぱいの表情の人々をギュウギュウに乗せた汽車に乗り込み、ようやくたどり着いた熊本の山奥で他の疎開者と一緒に暮らしている妹と1年ぶりの再会を果たした。久しぶりに会った妹は、以前に比べ肌もカサカサに黒ずみ、痩せていて別人かと思ったほどであった。23日そこでお世話になったあと、熊本市内にいるという従兄弟を頼って、妹を連れ、山を降りた。従兄弟は市内郊外にあるお寺で生活をしており、私たちもそのお寺でやっかいになることとなった。しかし、食べ物や毎日の生活などのため稼がなければならない。また妹を市内の学校に通わせようとも思っていたので、私は米や小豆、メリケン粉を買ってきてヤミ市での闇商売を始めた。荷物を担いで、遠く福岡や大阪あたりまで出掛けたこともあったが、ここでも緊張の連続だった。闇売買しているところを、警ら中の食糧営団の係官に見つかるとせっかく持ち込んだ品物を取り上げられてしまうから大変である。私は運よく見つかることはなかったが、沖縄の人達は、捕まるのがだいぶ多くて、取り押さえられた場面に出くわすととても可哀想に思えた。

 沖縄へ
 しばらくして弟が兵隊から復員してきて私たちと合流、生活もだいぶ助かるようになった。
 昭和21年末頃、私たち兄弟はついに念願の沖縄へ帰ることとなった。鹿児島を出て懐かしの那覇港に到着、甲板から外を眺めると、停泊中のアメリカの船から米兵がじろじろと私たちを見つめていた。とくにはじめて黒人の兵隊を見たときは衝撃であった。私たちは桟橋からトラックで集落の近くまで乗せてもらった。
 真玉橋に着くと、どこの家か分からないほど辺りは焼け野原となっていた。私たちの実家も以前の面影はまるでなく、廃材などを集めて建てられた掘っ建て小屋がポツンとあるだけだった。家では既に母と妹(三女)、弟(三男)が暮らしており、その元気な姿を見て私は嬉しさの余り母たちと抱き合って再会を喜んだ。
 そしてそのあと父と祖父、二男そして四女の妹が戦争で亡くなったことを聞かされた。亡くなった家族の冥福を祈り静かに御霊に手を合わせた。

(1998年4月寄稿)
キーワード沖縄県女子勤労挺身隊、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
真玉橋
市町村2兵庫県姫路市
字2延末
場所名龍田工業株式会社
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
所蔵館豊見城市歴史民俗資料展示室
受入元
利用時表示名
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.983-988
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
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