長堂 比嘉 晴助(防衛隊)_1_全文

ID1171201
作者比嘉 晴助
作者備考出身地「長堂」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目防衛隊
資料名(別名)長堂_比嘉 晴助_「捕虜収容所へ投降」_1_全文
キーワード役場吏員、徴用(読谷飛行場)、防衛隊、球1616部隊、津嘉山の壕、津嘉山→東風平→捕虜→屋嘉収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.981-983
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
長堂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 役場吏員に
 昭和14年12月、大陸での兵役を満期除隊し、小禄飛行場に降り立った私は、そこで、後に村長となる瀬長清氏にバッタリ出くわした。私の姿を確認するや瀬長さんはいきなり「やあ、比嘉君じゃあないか。帰還してすぐに何だが、村役場の吏員になってはくれまいか。」と切り出した。なんでも役場内に兵事主任という職種があるが、軍籍を経験した者がおらず組織内容や軍隊用語に詳しい人を採用したいということだった。村の大先輩である瀬長さんの誘いを断ることもできず、翌15年1月、私は豊見城村役場吏員を仰せつかることとなった。
 最初は兵事係の書記補を命ぜられ、主任の補佐役として雑務などを担当していた。当時の兵事主任は字我那覇の安谷屋さんという私より年上の方が勤めておられた。

 徴用作業を引率し飛行場づくり
 しばらくして私にも任務が与えられた。国防婦人会などの一般銃後員を集め訓練をさせたり、徴用として住民を集め読谷飛行場まで連れていくなどの仕事だった。読谷では造成前の滑走路周辺の除草作業が主だった。軍から人員何名というふうに割り当て命令が下ると、村役場では概ね45カ字から稼働者名簿に基づきそれぞれ均等に人数を集める。その場合、行く先などは当日まで明かすことはなく、だいたいは早朝、集めた住民の集合しやすい場所をあらかじめ決めておき、そこに軍の送迎用トラックが着くという段取りだった。
 私たち係員は作業現場まで住民らと同行し、そこで一緒に作業に従事して帰ってくるというもので、通常、作業は1泊から3泊にかけて行われていた。

 防衛隊に召集され
 沖縄戦も間近に迫った昭和20年初頭、私は防衛隊に召集され、南風原の津嘉山にあった球1616部隊の経理部に配属された。当時、津嘉山集落の後方には、東西に走る丘陵地があり、そこに1本の長い壕が掘られ、その両側となる山腹には枝のように37本の出入り口を構える大規模な陣地壕が構築されていた。私は防衛召集される以前、32軍司令部に所属していたということで、この津嘉山の壕に関して詳しかったということもあり、この地に展開する部隊に配属されたのであった。
 日増しに戦況は悪化し、5月中頃からは私たちのいる陣地も敵に察知され砲撃を受けた。ある日避難しようとしていた私たちのすぐ近くに爆弾が投下され、私はそのときの爆風に吹き飛ばされて体ごと付近の溝に落ちた。大声で助けを求め、近くの壕内にかつぎ込まれ手当を受けた。幸いケガは軽く約1週間ほどで、自力で食べ物もとれるほどに回復した。
 戦線の南下に伴い、いよいよ私たちも島尻方面へ後退することとなった。途中、住民からも避難経路や場所などの情報を仕入れつつ、2、3人ひと組で行動し津嘉山から道なき道を歩みながら、東風平へと到着した。
 結局、東風平のある壕にたどり着いたが、途中で本隊ともはぐれ、部隊がまったく違う者同士78人ぐらいがひとつの壕で過ごすこととなった。昼間は壕の中でじっと動かず、夜になって外に出ては食糧探しへと出掛ける日々が続いた。そんなある日、いつものように食糧などを探すため、息を殺しながら山の斜面を上っていたときのことである。樹の幹につかまるつもりで手を伸ばした瞬間、なんと私が捕まえたのは敵兵の足首であった。相手も相当に驚いた様子で身体をぐらつかせて崖下に転げ落ち、私もその隙に必死の形相でその場を逃げ出すという有り様だった。

 捕虜収容所へ投降
 いつの日からか壕の外側では「戦争は終わった」と、米軍が拡声器で敗残兵に対し投降を呼びかけはじめるようになったが、私たちはそれをデマだと信用せず、壕の中にずっと立て籠っていた。しかし日時が経過するにつれ、外側を行き交う人影もなく銃声もほとんど聞こえなくなってきたのが私達にも分かってきた。誰からともなく、「本当に戦争は終わったのかもしれない。捕虜収容所へ出頭しよう」という意見が出てきた。私たちは、着ていたシャツで白旗をこしらえ、一番近くの収容所へ投降した。結局、日付は10月頃になっていた。
 私達は屋嘉収容所に送られた。収容所に着くと収容人員の余りの少なさに「捕虜はこれだけしかいなかったのか」と自責の念で私は呟いたが、先に収容されていた捕虜の1人が「もう既に3回もここから捕虜が出ていったあとだ」と答えてくれた。
 私たちは屋嘉収容所に一週間ほど滞在し、そのまま字長堂に帰ってきた。

(1998年10月聞き取り)

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