与根 大城 英男(山原疎開(引率))_1_全文

ID1171191
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目公的機関
細項目山原疎開(引率)
資料名(別名)与根_大城 英男_「戦時下の村役場での任務」_1_全文
資料内容19年に役場に就職
 私は昭和15年に召集されて鹿児島45連隊(連隊砲中隊)に入隊し、18年に除隊して与根に帰った。昭和19年6月に豊見城村役場書記を拝命し、その年から始まった国民健康保険事務を担当した。当時の主任は赤嶺寛昌さん(字真玉橋)、書記が私、保健婦が当銘治子さん(字渡橋名)、大嶺房子さん(字渡嘉敷)の2人、計4人で保険料の徴収や病院との連絡事務、患者家庭の訪問など忙しい毎日だった。
 初めての保険料徴収だから苦情はあったが、当時の村民は一致団結する精神も強かったので、未納者もなく業務は順調なスタートであった。この制度ができる以前は、貯えのない時代だから、医療費は半年分をまとめてお盆や正月までに支払うのが普通であった。盆・正月前になると、病院の集金係が各戸を訪問して治療費を徴収していた。重い病気になると、財産を売って治療費を払った例もあったようだ。

 豚、ニワトリの供出
 昭和19年の役場組織は、瀬長清村長(字豊見城)、大城一男助役(字伊良波)、宜保晴永収入役(字高安)の下に戸籍係、兵事係、畜産係、勧業係、衛生係、健康保険係の6係(課)が置かれ、20数名の職員が働いていた。
 そのころ、勧業主任であった大城幸雄さん(字上田)が退職されたので、後任に私が勧業主任を命じられ、畜産係も兼務することになった。米軍の沖縄進攻が確実視されている時期で緊迫しており、勧業係の業務は村民が対象というより、日本軍への食料供出などの協力が主であった。
 軍への供出は、豚、ニワトリなどの家畜、イモ、カボチャ、野菜類であった。豚とニワトリについては軍から供出の指示を受けて役場の勧業係が各字へ割当てした。一応公定価格によって代金も支払われるが、市価よりかなり低い値段であった。豚、ニワトリは私が直接那覇港の近くにあった獣医少尉の屯所で少尉と交渉して値段をその都度上げてもらった。
 サツマイモや蔬菜類の供出は、村内に駐屯している各部隊が各字へ直接指示しているようで、役場は区長会などで軍への協力を呼びかけはしたが、具体的に各字の供出には関わっていない。

 村葬
 軍人が外地などで戦死すると、冥福を祈っておごそかに村主催の葬式でとむらいを行なっていた。最初は第二豊見城国民学校(現在の座安小)の運動場であった。そのあと、役場内の忠魂碑の前で行なわれた。葬儀には村役場職員、産業組合の職員をはじめ、在郷軍人、国防婦人会や一般村民の多数が参列した。しかし、昭和19年になると村葬は行われなくなった。

 軍馬の徴用
 昭和19年になって「軍馬の徴用」があるから馬籍(馬の戸籍簿)を作っておくように上司から指示された。 私は畜産係も兼ねていたので馬籍の作成も担当することになり、一週間も役場に泊まり込んで馬の戸籍づくりをした。頭数は200頭を越えていたと覚えている。その時の苦労と言えば、軍の命令ということもあるが、残業手当もなしに一週間も家に帰れずに働いたことと、馬の名前をつけることであった。
 馬の戸籍であるから、住所(飼い主)、オスメス(性別)、年齢と名前が必要である。初めのころは、寿号・隼号・泉号・光号など軍馬にふさわしい恰好の良い名前をつけたが、何しろ200頭となると名前が浮かんでこない。しまいには本人の了解を得て高里内俊さん(役場の小使いさん)の名前をつけた。高里号、内俊号と命名したものである。
 軍馬徴用の当日は、島尻郡の各地から第二豊見城国民学校の運動場にたくさんの馬が集められた。軍はその中から徴用する馬と、不合格の馬に分別して、徴用する馬は軍が決めた公定価格で買い上げていた。やはり、馬の値段も普通の相場よりかなり低いもので、喜んで供出する農家はいなかったと思う。実際に馬をかくしていることが憲兵の調査でばれてしまい、始末書を書かされたり、怒られたりずいぶん油をしぼられる人もいた。

 避難訓練・防火訓練
 竹やり訓練などもふくめ、戦時下の訓練は村役場が区長会で実施するように示達はしたが、訓練を主催したり、職員を各字へ派遣して実施したことはなかった。敵が沖縄に攻めてきた時の住民の対処などについては、那覇警察署長(具志堅宗精氏)や消防職員が村役場に来て村民を対象に講話や実演を何度かしていた。各字での訓練は在郷軍人・国防婦人会の方たちが自発的に実施していたと思われる。

 山原への集団疎開
 昭和20年2月10日に緊急市町村長会が開かれ、その席で県や警察から老幼婦女子の山原疎開の緊急疎開命令があったようだ。豊見城村でもこの命令を受けて区長会を通じて村民に指示した。疎開に関する全体的な指揮は警察署が執っているようで、山原までの避難経路や中継地の準備、受け入れ地域への事前の指示も警察が担当していたようである。本村は事前に大宜味に職員を派遣し現地との調整をしたあと実施した。
 第1回目の集団疎開は、私が引率して字宜保、字田頭の住民約40名を大宜味村字喜如嘉、謝名城、田嘉里に誘導した。まず、那覇駅に集合し、そこから軽便鉄道で嘉手納村まで行き、その日は嘉手納国民学校に宿泊した。翌朝は那覇警察署警防課が手配したバスで山田国民学校に到着し、そこでも1泊した。次の朝8時半にバスで山田国民学校を出発しようと準備している時に、第2回目の組が到着してびっくりした。
 第2回目の組は、金城幸一さんが引率した一行であるが、嘉手納まで軽便に乗って1回の組と同様に嘉手納国民学校に1泊する予定だった。ところが、夜になって誰かが「空襲だー」と叫んだため、全員逃げだし、夜通し歩いて恩納村の山田国民学校にたどりついたとのことであった。
 そのために疲労の極限に達している人や股ずれで歩行困難になっている婦人もいた。結局、先にバスで着いた組と、徒歩で来た組とを一緒にし、改めて1班と2班に分けて出発することになった。1班はお年寄り、身体の弱い人や歩けない者で、私が引率してバスで再出発することになった。気がかりだったのは金城幸一さんが引率する第2班の徒歩組の皆さんのことであった。
 歩ける人、健康な人とはいえ、大宜味村までは相当の距離があり、特に婦人の中には股ずれして、タオルやハンカチで太モモをまいていたり、荷物もあるので次の中継地となっている真喜屋国民学校(羽地村)まで無事にたどりつけるだろうかと心配であった。
 本村から大宜味村への集団疎開は、第3回目の大田栄順さんが引率した組まで行われた。先に述べたように途中での混乱もあったが、計画どおりに疎開を誘導した。
 最後に大宜味村役場、受け入れてくれた民家や3字の区長さんを訪ね、今後のことをお願いして私たちは引率者の役目を終え村に帰った。

 与根滑走路
 現在の国道331号に沿って伊良波から翁長まで滑走路が建設されていた(米軍側は糸満飛行場、日本軍は秘密飛行場と呼んだ)。この滑走路の工事は昭和18年ごろから始まっていたと思うが、19年当時には島尻郡の各市町村に工区の割り当てがされ、市町村ごとの競争をさせていた。もちろん、本村も村民を動員して滑走路に敷く石を運んだり、地ならしなどの作業に取り組んだ。この滑走路は「帰らずの飛行機」が飛び立つから、精を出して早く完成させよ、という説明があった。
 私はこの工事現場で初めて日本軍の作業機械・中型ブルトーザーを見た。整地作業に百人分もの偉力を発揮していると感心した覚えがある。

 捕虜
 私たちの家族5人(母、妻、姉、姉の子)は6月中旬ごろの夜、海岸沿いに名城に避難したが、身をかくす場所もないのでアダンの茂みにいた。近くで母親らしい人が額に砲弾の破片が刺さっていて、苦しそうにあえいでいたがどうすることもできなかった。すると、6年生ぐらいの女の子が破片を口でくわえて抜き取っていた。
 名城では私たちの近くにも砲弾が落下し、その破片で姉は即死、母は負傷して10日後に死亡した。私も足に負傷してツエをついていた。そのころ、喜屋武、摩文仁一帯から名城、糸満方面に向かって、多くの住民がゾロゾロ行列をなしていたので、私たちもその後についた。兼城村の潮平で家族(妻と姉の子)は米軍の保護を受け、そこから上陸用舟艇に乗せられて越来の収容所に運ばれた。私は字嘉数の下に収容され、簡単な取調べを受けて、再び玉城村船越(現在の小学校付近)の収容所につれて行かれた。そこには既に具志堅宗精さん(那覇警察署長)らが収容されていた。

(1999年8月聞き取り)
キーワード馬戸籍、供出、山原疎開、与根滑走路、南部避難
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.977-981
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
与根
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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