渡橋名 赤嶺 弘永(出征兵士にむけた慰問文)_1_全文

資料ID1567181
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目その他
資料名(別名)渡橋名_赤嶺 弘永_「出征兵よ元気あれ(慰問文)」_1_全文
資料内容一 静かなる我が豊見城の沃野にて
  清き自然を友として
  たのしき青年学校に
  日夜心身鍛練し
  資質向上励みたる
  我が先輩よ いまいずこ

二 北支の風雲急を告げ
  キビ生い茂る平和郷
  下る動員召集に
  南の島より北の果て
  軽き其の身に重き任
  我が神州の大使命

三 出征兵よ元気あれ
  暑さ寒さも厳しきと
  新聞紙上に報ずれど
  かかる時こそ国民の
  期待に応える時なるぞ
  東亜の盟主よ双肩に

四 厳寒吹雪猛るとも
  耐えて忍んで国の為
  尽くしてくれよ先輩よ
  萬里異郷の大陸で
  東洋平和の到来を
  朝日と共に待たんかな

五 かねて鍛えた空手道
  弘く世界に示すべし
  我が沖縄の健男児
  君知る南に咲くでいご
  深紅の情熱燃えたぎり
  日中友好の華咲かせ

六 秋過ぎ冬は来たれども
  故郷のことは憂うるな
  キビの葉末の豊かさよ
  砂糖製造近づけど
  非常時局に際しては
  奉仕の精神盛んなり

七 高き御嶽に集うのは
  皆様の武運長久を
  神懸け祈る村の人
  この人々の有る限り
  我が豊見城の護り神
  御嶽も冴えて輝かし

八 我等の祖先は古より
  彼の地と交流繁くあり
  4億の民と手をつなぎ
  汗水節をうたう日を
  私は待ちます皆様と
  アジアの夜明よ早く来て

九 大東亜の建設も
  大豊見城の建設も
  人無くしては出来ません
  御無事の帰還を祈ります
  此れはみんなの願いです
  命ど宝のことわざも

十 弓矢八幡大菩薩
  我が豊見城出身の
  武夫(ますらお)武運守り給り
  務め励める派遣士の
  身に最上の誉れあれ
  世界の平和を授け給え

※赤嶺弘永氏自作の「慰問文」
この慰問文は1937年(昭和12)12月、戦地に赴いている村出身兵士へ送るため、二豊校において作成した慰問文集『ひなた』へ赤嶺氏(当時19歳)が寄稿したものである。
 文集を送ったのち赤嶺氏のもとには御礼の返事も23通届いたという。
 この慰問文には、当時の世相を如実に表す言葉や文章(太字)が随所に盛り込まれており興味深い。
 たとえば、青年学校に通う当時の若者の気概を示した一番からはじまり、二番では「北支の風雲急」や「動員召集」の言葉が緊迫した大陸の情勢を述べている。
 また、「東洋平和の到来(四番)」や「日中友好(五番)」「大東亜建設(九番)」をうたい、「世界平和(十番)」でしめくくっている。当時、日本が強行にすすめた大陸への出兵目的については国民のほとんどがそう信じて疑わなかった時代でもあり、「神州(二番)」や「東亜の盟主(三番)」たる日本こそ、それらの使命を果たす特別な国であると独善的な風潮が世論をも支配していたのであった。
 六番の「故郷のことは憂うるな」「奉仕の精神盛んなり」と出征兵士の後顧を気遣いながら、部落の御嶽につどい「武運長久を祈る村人」のすがたと息遣いが、この慰問文からは見えてくる。
(1999年10月聞き取り)
キーワード日中戦争、慰問文集『ひなた』、二豊校(座安小学校)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
渡橋名
市町村2
字2
場所名
時代・時期近代_昭和_戦前
年月日(始)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
所蔵館豊見城市歴史民俗資料展示室
受入元
利用時表示名
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.975-977
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
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