長堂 大城 清栄(パラオ→ニューギニアシアウ島 移民先で徴兵)_1_全文

ID1171171
作者大城 清栄
作者備考出身地「長堂」
種類記録
大項目証言記録
中項目移民・戦争
小項目軍人・軍属
細項目パラオ
資料名(別名)長堂_大城 清栄_「南島の山中をさまよって」_1_全文
キーワード外地体験、徴兵検査
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.969-972
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名パラオ
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2長堂
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は、昭和16年1月8日に出稼ぎ先のパラオに向け、中継地の神戸へと那覇港を出発した。私が16歳の時だった。
 私は8名兄弟の長男だったし、母の豆腐づくりでの生活は大変だと思ったのと、船が好きだったので漁業、特に真珠貝の漁をやろうと思っていて、自分の部落の先輩にその真珠貝の漁をやっている人が2名いたので、パラオに行く決心をした。となりの親戚のおばあさんから旅費として100円を借りた。

 当時沖縄からの出稼ぎは私たちが最後だった。その頃はちょうど戦争が始まる前で社会情勢がおかしくなっていた。又トラホームが流行っていたのでそれにかかった人達は行けなかった。
 パラオには多くの村出身者がいた。昭和16年には村人会があり、会長は金城さんという字真玉橋出身の方だった。
 真珠貝の船に乗ろうと思っていたものの、年齢が若すぎてその船には乗ることは出来なかった。それでしばらくはあれこれと食い繋いで1年位してから年齢を19歳とごまかして海運省に仕事口を見つけた。それでコロールのアミオンスクで水上飛行機用の飛行場(当時、げたばき飛行場と言った)づくりをやっている大城班(大宜味の大城さんが班長)の下でしばらく仕事をやった。トラックがないからリヤカーで石などを運んだりした。海運省は国の機関で護岸作りや滑走路づくりをしていた。日給も高く3円50銭で当時の沖縄の平均的な労務のそれとは比較にならなかった。それで少々のカゼでは休まなかった。

 海運省の仕事が終わると、今度はコロールから船で3、4時間かかる離島にあった南洋アルミ会社に入った。山から鉱石混じりの赤土を掘り出してきて、それを洗浄して鉱石を日本に送る会社だった。私はこの会社の運搬船の機関部に配置された。この会社で仕事のかたわら青年訓練を約2カ年うけた。教育訓練みたいなもので毎日2、3時間うけた。銃をかついでの教練、連絡訓練、山の上に登っての見張りの訓練等々。

 南洋アルミでの訓練後19年か20年だったが、パラオで徴兵検査の再検査があって、当時船乗り(船の機関部)だったのですぐに徴兵されて、海軍に入隊した。徴兵検査といっても頭をなでてほめるだけで、これといった検査は何もなかった。非常時だから陸で働いている人は陸軍、海で働いている人は海軍行きだった。部隊は203部隊、後に224部隊。海軍といっても兵隊やトラック、弾薬を輸送してあちらこちらの離島に降ろす役目だった。第一線への参加はなかった。訓練はうけたが機関部だから空を見たこともなかった。4名で交替でやっていた。パラオを出航したらパラオにはなかなか戻れなかった。島から島への運搬の任務だった。

 ある時、ニューギニアからシンガポールに行く途中、船に「危険だから引き返せ」との無電が入った。それでニューギニアには行かず、セブ島(フィリピン)、アンモーに荷を降ろした。そこからダバオに行きニューギニアに引き返した。その途中、船は敵の機銃掃射にやられた。船はニューギニアの島の浅瀬に座礁し、燃えていたが、私たち機関部は最後まで船がやられたというのは気付かず、合図をうけてから外を見ると船が島に近づいているの知り、慌てて窓を割って海に飛込み、泳いで島へついた。この島が私の終戦の島となった。

 この島はニューギニアの離島でシアウ島だった。山の中に逃げ込んだが食料難に苦しんだ。火は木と木をこすって起こした。ここでは各々自分で食料を探して食べた。島にあった椰子の実は食べ尽くし、後は木も倒して食べた。ちんなん(カタツムリ)も拾って食べた。自分で探した食料は誰にもあげない、隊長にもあげない。仲間からどんどん餓死者も出始めた。もう早く戦死した方がいいと、山の上に登ってタオルを振って敵の飛行機に見えるようにしたのだが、米軍機は撃ってこなかった。米軍もほっといてもどうせ死ぬと思ったのだろう。約2カ月ぐらいこの島にいたが多くの仲間が飢えで死んでしまった。食料を探して川を渡る途中、ワニにやられた者もいた。80名ぐらいいた乗組員も最後にはたったの9名だけが生き残った。沖縄県人は3名生き残った。

 そして、ようやく大発船が島に迎えに来て、それに乗ってマルコニー島の日本軍の基地だった米軍の収容所みたいな所に入れられた。ここの収容所では武器の整理やトラックの清掃をさせられた。自給自足でイモや米などを自作していたが、引き揚げる時にはこれらの食料は焼却した。約1年半ほどこの収容所にいた。収容所には村関係者も4名ほどいた。与根の人は一時は一緒にいたが木の伐採のため収容所からでていった。収容所は出入りはわりと自由だった。鉄条網も無い収容所で逃げることも出来た。むしろ早く出ていきなさいとの方針だったようだ。私はこの収容所で3食にありつけたので、ここから動かないつもりだった。私は倉庫の整理係をしていたので、衣服を盗んで外に売りに行き、食べ物を仕入れて収容所に戻った。収容所のみんなは私の帰りを待っていた。

 昭和22年頃だったと思うが、私は引き揚げ船で和歌山県に復員し、同県の海兵団の兵舎にいた。そこに豊見城村の人達も4、5名帰ってきた。与根、金良、長堂の人達だった。又、あちらこちらから復員兵達が帰ってきたが、本土の人達は故郷にすぐ帰してくれたが、沖縄県民は帰してくれなかった。それは「沖縄は焼け野原になって誰もいないので、沖縄には帰られない」という風評が流れていたためだった。

 ある日、同じ復員者の赤嶺さんという方が、大阪に親戚がいるということで大阪に行き来していた。その赤嶺さんから大阪には沖縄県人がたくさんいると聞いたので、第15兵舎の部屋の班長で同郷の先輩の又吉さんを誘って大阪に行ってみたら偶然にも宮崎から米を買い出しに来ていた弟に出会った。お互い「生きていたのか」と抱き合って泣いた。弟が小学3年生の時以来の再会であった。陸軍の軍服をきていたので、すぐに弟とは分からなかった。私は又吉さんの妹の夫の家に泊まっていたが、その隣に住んでいる山原の方から「あなたに似ている人が隣にいる」と、弟は聞かされて、ビックリして訪ねてきた訳であった。兵隊になったことも分からなかった。大阪で徴兵になったようだ。その時、母兄弟が宮崎にいることを知った。
 宮崎に来て沖縄県人の第三次引き揚げまで終了していて、第四次、第五次とあることが分かった。それで和歌山に置いてあった荷物を取りに行った時、仲間にその事情を知らせた。皆も沖縄に帰る気になった。
 沖縄に帰ってきたのは昭和23年頃だったと思う。久場崎に降りた。
(1981年1月聞き取り)

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