上田 大城 義助(フィリピン 移民)_1_全文

ID1171161
作者大城 義助
作者備考出身地「上田」
種類記録
大項目証言記録
中項目移民・戦争
小項目住民
細項目フィリピン
資料名(別名)上田_大城 義助_「出稼ぎ・敗戦・平和のありがたさ」_1_全文
キーワード外地体験、10.10空襲(十・十空襲)、移民(フィリピン)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.967-969
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名フィリピン
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2上田
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は昭和5年に母や姉を沖縄に残し、金儲けのため、フィリピンに渡った。
 最初は、あっちこっちで日雇い人夫として働き、だんだん生活にも慣れてきた頃、ダバオの麻山で働くようになった。でも生活は決して楽ではなかった。
 朝夕は過ごしやすく、沖縄と変りなかったが、夏の真昼の暑さは大変なもので、コールタールを敷きつめた道から来る熱風のようなもので汗だくだくであった。
 戦争が激しくなるまでは、フィリピンの人たちとのトラブルはなかった。同じ皮膚の色で、顔つきも似ているので互いに助け合って生活した。すこしごちそうがあると近くの原住民にあげる。彼等は私たちに農作物の作り方やめずらしい物の料理方法などを親切に教えてくれた。

 私の住居近くに同じ字出身の大城忠盛さんが昭和12年に来たので、彼とは幾度となく会い、郷里の話などをしてふるさとを懐かしんだ。ほかに字上田出身では、大城安栄さん、屋号〈西り門小〉の宜保盛二さん、宜保栄一さんらがフィリピンにやって来たが、住む所が遠く、年に一度程度しか会うことはできなかった。彼等に再会してふるさとの話をするのが、なによりの楽しみだった。 

 昭和16年12月8日に、戦争が始まったが、しばらくは、前と変わらぬ暮らしだった。地元住民と私たちの仲も良かったし、互に励まし合って生活した。当時、私は妻と2人で、土地を求め、家を建て、やや安定した生活をしていたので、近隣の地元住民ともうまくいっていた。家を建てるまでは、原住民の土地を借りて、収入は何%というように分けていたから大変だった。

 向こうには日本軍が、その以前に上陸していたので、沖縄の10.10空襲(十・十空襲)のことについては彼らの口からそのニュースは伝わって来た。那覇が壊滅的な被害を受けたと知った時には、字上田は那覇に近いし、いなかに残した家族や親族や字民は大丈夫だろうかと大変心配だった。

 沖縄に、米軍が上陸し、激しい地上戦が行われ、やがて終結するまでの間の向こうの生活の苦しさは口に出来ないくらいだ。ミンダナオ島に住んでいる日本人は、ダバオの学校の庭に集められた。10日近く、何百といる日本人は一つの校舎に閉じ込められた。横になることも出来ず、座ったままで寝た。食事は、塩をなめ、大豆をほんの少量与えられた。栄養失調で死ぬ者もいた。
 沖縄戦が始まる前に日本軍がフィリピンに来たが、多くのフィリピン人が攻撃され、殺された。日本人移民のなかには、中国人の経営する店をこわし、品物を盗る者もいた。死んでいる原住民を棒でたたく者もいた。

 日本軍は敗戦と同時に武器を捨て、軍の財産を放置して、米軍の捕虜となり、工場に集められ、米軍の配給(食糧やタバコなど)を受けたが、中には山奥に逃げ込んだ兵士も多くいた。

 私は妻と2人で山奥に逃げた。持参品は、少々のいもくず、砂糖。けがに備えて赤チンキ一瓶だけだった。山に逃げる時、近所の地元住民に「家も土地も君にやる。豚を1頭つぶして、油をしぼってくれ」と頼んだ。彼がしぼってくれた油を担いで山奥に入ったが、足をふみすべらしてころび1つの壷の油はだめになった。その原住民は大喜びで、私たちを遠くまで送ってくれた。山奥に逃げ込んで安心と思ったら、日本の敗残兵が住民の食糧や衣類をうばいとり、彼らを殺す者もいた。山奥はかえって危険なので、山を降り、米軍の所に逃げ込んだ。米軍は親切で、食事を与え、けが人には薬をくれ、缶入りのごはんやタバコの配給もあった。山に逃げている間に、口で言い表せない苦労をしたが、今になっても、思い出したくない程だ。

 私たちは再びダバオに集められ、帰国のため米軍の貨物船に乗せられた。親子、夫婦別々の人たちも多かった。船足は遅く、10日間をかけてやっと横須賀に着いた。そこから、浦賀に行き、九州へと汽車で運ばれた。大分の中津に着き、約1年ばかり、物資の配給を受けて生活し、健康な人は人夫として働いた。
 その後、また汽車で横須賀に送られ、やっとのことで沖縄行きの船に乗り込むことが出来た。2日後に、懐かしい沖縄の地を踏むことが出来た。中城の久場崎のテントに収容され、翌日、トラックで字上田に向かった。豊見城の役所前でトラックを降りたが、どこが字上田への道なのかわからなかった。その時、初めて出会った人が、平良の大城義雄さん(元収入役)で、彼に道を教わって字上田に着いた。字上田に着いた時の気持ちは言葉では言い表せない。とにかく生きて帰れるとは思わなかった。 終戦当時の部落のようすはとにかく大変だった。家はほとんどなく、一軒に2、3世帯も同居していた。私の家は幸い建てかえられていたが、四隅が石の柱なので、風が強めに吹くと、グラグラ動いて、それは恐いものだった。食べる物も不自由だった。でも生きて帰れたというだけで幸せいっぱいだった。
 その当時と比較して、今の生活はぜいたく過ぎるくらいだ。子ども達にそう言うとしかられるからあんまり言わんが、とにかく、平和ほどありがたいものはない。

(1996年8月聞き取り)

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