座安 宜保 光造(パラオ 日系企業赴任先で徴兵)_1_全文

ID1171151
作者宜保 光造
作者備考出身地「座安」
種類記録
大項目証言記録
中項目移民・戦争
小項目軍人・軍属
細項目パラオ
資料名(別名)座安_宜保 光造_「パラオでの体験」_1_全文
キーワード外地体験、大阪出稼ぎ、パラオへ赴任、現地招集、空襲
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.966-967
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名パラオ
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2座安
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は大阪に出稼ぎに行っていた。そこは紡績用の糊を製造する工場で、それらの原料となるタピオカや石粉などは中国の大連から取り寄せていた。しかし、事変のあおりを受け、原料調達が難しくなると、会社は南洋群島に現地工場を建設し、そこから製品を大阪に送ることを計画した。社内で派遣募集があり、私はそれに応募、昭和12年末頃、私は家族ともどもパラオへ赴任することとなった。
 現地に着くと、さっそく工場建設に従事したが、操業が始まったのは昭和16年のことだった。この年の暮れに大東亜戦争が始まった。パラオの工場内でも竹槍訓練が実施されることもあったが、緊迫感はまだまだ薄いという状況だった。

 昭和19年7月、サイパンが陥落した後から、私たちのパラオ島にも敵機が次第に姿を見せるようになった。あるとき、用事のためパラオ南洋庁のあるコロール町へ出掛けようとしたら、上空高く飛行機が旋回している。サイパン島が陥落した直後だったが、ちまたでは日本軍の航空部隊が大挙反撃に出るという噂もあちこちから挙っていたので、その飛行機をてっきり友軍機だと思っていた。手や帽子を大きく振りはじめ、歓声が沸き起こった。兵隊たちも同様だった。飛行機は旋回しながら徐々に高度を下げてきた。間もなくそれが敵機だと分かると、今まで空を見上げていた群衆も、蜂の巣をつついたように四方八方に避難した。パラオに来て初めて経験した敵の空襲だった。

 この年の暮れには、私も召集され現地の軍隊に配属された。パラオの日本軍はガダルカナル島の残存兵を基幹とした部隊で、それに現地召集を加えた急造の混成部隊となっていた。
 目と鼻の先に見えるペリリュー島には日本軍の飛行場があって、そこにはすでに敵に占領されているという話だったが、情報も伝わらず詳しいことは分らない。私たちのパラオ島は孤立しているかのようであった。
 私が所属したのは山本隊と呼ばれた部隊で、そのなかの速射砲分隊に配属された。10人のうち、3人が現地召集された人達で軍服の支給はなく、私服での部隊勤務だった。その速射砲は浜辺に面したマルキョク、カイサルと言った村落の後方にある小高い山に据え付けられ、海岸付近の警戒の任務にあたっていた。現地召集兵の仕事は弾運びや雑務など兵隊たちの助手のようなものばかりで、訓練などもなかった。
 度重なる空襲で食糧なども焼かれ、困惑していた折、沖縄の慶良間に米軍が上陸したとの情報が私たちの耳にも飛び込んできた。この情報が入った頃を境に、部隊は私たちに食糧増産に取り掛かるよう命令した。以来、私たち現地召集兵は農作業に従事する日々がしばらく続いた。

 結局、パラオでは空襲はあったものの、地上戦はなかった。私は空襲で妻と子供3人を亡くした。やがて日本が戦争に負け、終戦が訪れたことを部隊から知らされ、私たちは解放された。部隊は先に引き揚げたが、その後どうなったか分らない。私はしばらくは海岸の集落での生活を続けた。昭和21年2月、私は船で直接沖縄へ帰還した。パラオに来たときは一緒だった家族も空襲で失い、帰りは私一人だった。

(1999年12月聞き取り)

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