瀬長 高良 成吉(フィリピン 移民先で徴兵)_1_全文

ID1171141
作者高良 成吉
作者備考出身地「瀬長」
種類記録
大項目証言記録
中項目移民・戦争
小項目軍人・軍属
細項目フィリピン
資料名(別名)瀬長_高良 成吉_「フィリピンでの戦争体験」_1_全文
キーワード外地体験、徴兵検査、移民(フィリピン)、現地徴兵
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.965-966
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名フィリピン
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2瀬長
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は4人兄弟の二男として生まれた。しかし長兄は12歳のとき病死したほか、父もフィリピンで働いていたので、私達の家族は母を含む4人暮らしだった。私は昭和14年、父の呼び寄せで、フィリピンへ行くことになった。私がちょうど18歳の時だ。当時、那覇からフィリピンへの直行便はなかったので、私は長崎を経由してフィリピンへ向かった。瀬長島からは私を含めて3人一緒だったので心強かった。船で1ヶ月ぐらいかかっただろうか。やっと私たちはフィリピンに上陸することができた。

 父はダバオ島で麻の栽培をしていたので、私もそれを手伝った。しかし、平和な生活もつかの間、戦争の足音がこの島にもやって来た。父は昭和16年になるや否や、沖縄へ引き揚げた。たぶん最後の引き揚げ船だったと思う。

 戦況は悪化の一途をたどり、日本はフィリピン在の日本人を対象に徴兵検査をし始めた。私は昭和18年、召集され多賀部隊に入隊した。私が守備兵として配置された所はダバオに近いサマル島だった。多賀部隊は何千人という兵力だったが、米軍の激烈な艦砲射撃には太刀打ち出来ず、後退を余儀なくされた。私たちは米軍の攻勢が一段と激しくなったため、ダバオに退去。ついに米軍はダバオの海岸を占拠。私たちは山岳地帯に追い込められていった。
 食糧もなく、深いジャングルの中で苦しい生活を強いられた。私たちは中隊別に行動したが、逃げ回るうちに仲間は散りぢりになってしまった。川べりには日本の移民家族が集団で逃亡生活をしていたが、米軍の猛烈な攻撃で多くの犠牲者が出た。山中のあちらこちらに人が倒れ悲惨な状況だった。
 私は終戦をフィリピンの山中で迎えた。負けイクサというものはみじめなもので、現地人は日本兵を見つけると捕まえ、捕虜として米軍に引き渡していた。私は沖縄出身の宮里善栄さんと一緒に山から降りることにし、2人で途中まで来たが、いつの間にかはぐれてしまった。彼とは入隊以来ずっと行動を共にしてきたので、気が気でならなかった。しかし、彼とはそれっきり会うことはできないままだ。一人ぽっちになった私は幸運にも大里出身の照屋長健さんに出会った。当時は一人歩きは危険だっただけに、私はホッと胸をなでおろした。彼と一緒に山を降りようとした時、現地人に見つかってしまった。その現地人は鉄砲を持っていたので「これでやられてしまう」と一瞬、不安感に襲われた。しかし、私たちは助かった。照屋さんとその現地人は知り合いだったのだ。私は九死に一生を得たと思った。

 私は昭和20年の末ごろ、アメリカの貨物船で横須賀に引き揚げた。そこから神奈川県に移され、2、3ヶ月間滞在したあと、宮崎を経て昭和21年末に沖縄に帰ってきた。戦争を体験した者として、二度とこのような悲惨な目にはあいたくない気持ちでいっぱいである。

(1981年1月聞き取り)

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