高千穂町 吉村 英正(学童疎開 宮崎県上野村)_1_全文
| ID | 1171131 |
|---|---|
| 作者 | 吉村 英正 |
| 作者備考 | 出身地「高千穂町」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県上野村) |
| 資料名(別名) | 高千穂町_吉村 英正_「本堂の前庭もイモ畑に」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開(受け入れ側)、供出、赤痢、再疎開 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.960-961 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 宮崎県 |
| 市町村 | 高千穂町 |
| 字 | |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 正念寺では、庫裡(くり)の奥座敷の一間だけを残して、30畳くらいの部屋と炊事場とを全部開放し疎開団の宿舎としていた。疎開児童らの朝は早く、7時頃には学校へ出かけていた。人夫坂の坂道を越える登下校には40分くらい時間がかかっていたと思う。 疎開団が上野入りして、すぐに寒い冬がやってきた。しかし、沖縄の子ども達のなかには半ズボンで頑張っている子もいた。はじめて雪を見た夜のこと、夜が明けたと思ったらそれは雪のせいで、みんな裸足で外へ飛び出し、はじめは雪の上を跳びまわって大喜びだった。 宿舎の部屋には大きなこたつがあって、みんなでよくそれに足を入れて暖まっていた。古着の供出などもあったが、当時は地元の人達もゆとりがなくて厳しかった。 お風呂などは、庭にブリキで船のような浴槽を作って、利用していた。しかし当時は水道なんてないから、寺の下側にある湧き水まで行って、それを汲んで来たりしていたが、水汲みもたいへんだった。 ひもじさは当時、どこも同じで、地元でも純粋の米のご飯だけでなく、イモを入れたり、コーリャンが混ざっていたり、雑炊などといった献立が主であった。これを竹を切って作ったお椀で食べていた。疎開学童たちには特別配給などもあったようだが、全然足りる内容ではなかった。それで当時、住職だった私の父・正俊が、食糧増産のために本堂の前の敷地を全部耕して、そこをイモ畑にしたのだった。作業は世話人のおばさん達や、子どもたちが全員で取りかかっていた。それから近くにうちの山もあったが、そこも切り開いて畑にかえていた。自給自足のため、疎開児童らもよく頑張っていた。またこの頃、地元の農家では人手不足で困っていて、疎開団の高学年の子ども達に手伝いを依頼することもよくあった。頼まれた子ども達は、その農家で作業し、そこでご飯を腹一杯食べてきて大喜びだった。 寒さやひもじさもたいへんだったが、もうひとつ親元を離れて異境の地で生活するその寂しさは、甘えたい盛りの子ども達にとって辛いものだったと思う。夕方ともなると、よく本堂の前の石段に集まってきて、歌を口ずさんでいた。「さらば沖縄よ、また来るまでは…」いつしか子ども達がみんな集まって日暮れ近くまでその歌を歌っていた。幼い子ども達が「早く帰りたい」「寂しくてたまらない」気持ちを歌うことで紛らわせていたんでしょう。子ども達はそのような寂しい気持ちをさらに宿舎(庫裡)の障子や壁に向かっていっぱい落書きであらわしていたりしていた。見ていて本当に胸が痛くかわいそうに思った。なかにはわんぱくな子もいて、住職が出かけるときなど、その子らに衣を着せて一緒に連れて行ったりすることもあった。子ども達は出先で食べ物などの頂き物にありつけるということで連れて行かれたときなどは大喜びだった。 あるとき集落内で赤痢が流行って、10人くらい亡くなった。幸い、正念寺にいた学童たちからは1人の感染者もなかった。引率の大小堀先生はじめ、住職、それに母などは病気にたいへん気をつかってひと頃は寝られなかった時期もあったという。しかし、残念なことに大小堀先生は民家の近くに住んでおられて、お子さんがそのときの赤痢に罹って亡くなってしまった。 それから学童たちは、種馬所に引っ越し、その後大分に再疎開したようだが相当苦労をしたと思う。 帰郷後も、当時の疎開学童たちが度々たずねてくる。個人で来られる方、グループで来られる方々、そして私の母に「母さん、母さん」と今でもそう呼んでくれる。会えば涙を流して喜びあう。ともに当時を苦労してきた仲だから。 疎開学童と正念寺との交流は、大小堀先生が生前まで中心になってやって来られたが、今でも変わらず交流は続いています。〈旧上野村在・正念寺前住職〉 (1997年 聞き取り) |
