高千穂町 江藤 博方(旧上野村役場職員)、野尻 済好(旧上野村役場職員)、野尻 寿江(旧上野国民学校訓導)(学童疎開 宮崎県上野村)_1_全文

ID1171121
作者江藤 博方(旧上野村役場職員)、野尻 済好(旧上野村役場職員)、野尻 寿江(旧上野国民学校訓導)
作者備考出身地「高千穂町」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)高千穂町_江藤 博方(旧上野村役場職員)、野尻 済好(旧上野村役場職員)、野尻 寿江(旧上野国民学校訓導)_「竹瓦葺きの宿舎を造って迎える」_1_全文
キーワード疎開体験談、学童疎開、上野、学童疎開(受け入れ側)、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.958-960
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名宮崎県
市町村高千穂町
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 豊見城村の学童疎開団が上野に着いた時期は、そろそろ朝夕も冷え始める季節に差しかかっていた頃であった。鹿児島から宮崎の延岡、さらに日之影駅までは鉄道で、日之影からは省営トラック2台に分乗して上野村にやってきたと記憶している。疎開団一行は上野国民学校の下側でトラックを降り、そこで上野校の児童ブラスバンドの演奏が出迎えた。それから集会所へ移動、校長先生からの歓迎のあいさつがあり、婦人会のみなさんが準備したおにぎりを食べてもらった。

 上野村への学童疎開団受け入れは、宮崎県西臼杵郡支庁から連絡があった。さっそく受け入れ態勢について、学校関係者や民生委員などを集めて協議した。しかし、90人を1カ所に収容できる施設は上野にはなかった。そこで、正念寺の当時の住職だった吉村正俊さんが「では、半分はうちが引き受けましょう」ということになり、学校に宿泊する組と、正念寺に宿泊する組とふた組に分かれて疎開生活を送ってもらうこととなった。当時、正念寺の吉村住職は、村民生委員の総務をしておられて、疎開関係の取りまとめ役であった。大小堀先生と宜保先生で組分けをし、食事のあと、両宿泊所にさっそく分かれ、疎開生活が始まった。

 正念寺は、上野校から3キロくらい離れたところにあり、学校組の宿舎は学校敷地内の校舎の横に新たに竹瓦葺きの約12畳の平屋を準備した。学校での炊事は給食室のようなものがあってそこを使っていた。学校は、豊見城の学童らのほか、一般疎開で上野にやってきた家族の子も加わり、地元の子どもたちと一緒の教室は満杯状態であった。しかし、机や腰掛け、教材類は大丈夫だったと思う。

 生活面は衣食住のうち、「住」の確保はなんとかできたものの、学校組の宿舎が竹瓦葺きの急造宿舎だったため、寒さ対策のため囲炉裏を1カ所造ったことがあった。燃料となる炭は、疎開学童専用の炭焼き小屋を江藤さんが造り、燃料が不自由しないようにしていた。「食」については、地域から米や野菜などの差し入れがあり助かったが、それでも厳しい時勢のなか、量は充分でなく、疎開児童らはいつも空腹感を抱えていたようだった。農家の畑から時折生イモを失敬するようなこともあった。そのほか、集落の行事があるときなどは団子などの差し入れもよくあったようだ。また沖縄の子ども達は、慣れない冬の寒さに充分な防寒服もなく、「衣」についてはたいへん苦労したようだった。地域から古着などの寄贈はあったようだが、上野の厳しい寒さのためしもやけで苦しんでいる子どもたちも多かった。

 医療面では、地元の黒木先生と、上野に疎開して来られた柏先生(沖縄にもおられたという。)が校医として面倒をみてくださっていた。
 通学も、学校組はいいとしても、正念寺組の子ども達は子どもながらにたいへんだったと思う。寺から学校までは約3キロくらいあって、その通学路は一本道、人夫坂という坂道の頂上などは風も強く、冬場はすごく寒いところで、そこを通って子どもたちは通学していた。

 昭和19年10月、上野校での運動会当日のことは私たちも覚えている。この日、沖縄が米軍の空襲を受けているとの知らせが突然入り運動会は中止となった。疎開児童らはほとんど泣いていたという記憶がある。このとき、地元の人達が各家庭から持参してきた弁当を、そのまま沖縄の子どもたちのために差し出したことがあった。故郷を思って泣きじゃくる子ども達がかわいそうで仕方なかったものと思う。

 地元の児童らと同じ教室で肩を並べ、学校生活を送った豊見城の子ども達、地域との交流も深いものだったと思う。婦人会などが野菜などの差し入れを行ったりして疎開団を訪問することは度々行われた。また、このほか、地元農家からの要請で、疎開児童らが農作業の手伝いに出かけたりすることもあった。そんなときは、その家庭でご馳走してもらったりしたようだ。

 正念寺組は、のちに種馬所に宿舎を移している。そこは正念寺よりは学校に近い場所で、70坪ほどの長屋造りの宿舎があった。疎開団は、その後大分県へ再疎開した。沖縄へいつ帰れるか分からない、長期滞在になるかも知れないということで、自給自足の必要に迫られた。ちょうどその頃に宜保先生の知人が大分におられて、大きな農地が空いているからと誘われて学校組、正念寺組とも上野を発ち、大分へ向かった。

 疎開団の皆さんが沖縄へ引き揚げた後、昭和42年に正念寺の吉村住職夫婦と私(江藤)が、疎開された人々から招待を受けて、1週間ほど豊見城村に招かれたことがある。その後も当時の同窓生達の同窓会を沖縄で行ったりして交流は今も続いている。

※3人の方々への聞き取りを、一人称に書き換え、掲載してあります。(1997年 聞き取り)

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