宜保 當間 義彦(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文

ID1171111
作者當間 義彦
作者備考出身地「宜保」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県北郷村)
資料名(別名)宜保_當間 義彦_「宮崎に疎開して」_1_全文
キーワード疎開体験談、学童疎開、「伏見丸」、北郷村、宇納間会
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.956-958
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
宜保
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 学童疎開について親たちは、わが子の安全と、いざという場合に備え、相当深刻に受け止め、疎開を決定したようであるが、当時、私たち子どもにとっては親兄弟と別れることは辛いものの、「他府県へ行ける」「戦争が終わったらすぐに帰れる」、というくらいの気持ちであった。疎開は私たちが希望したからということではなく、親たちが決めたことに、従ったまでのことだった。

 出発前、私たちは那覇の旅館に終結したが、自宅から那覇までどこをどのようにして通って行ったのか全く覚えていない。乗船は、はしけで沖に停泊中の「伏見丸」まで移動し乗船した。もう引き返せない。昼間までは物珍しさも手伝って、船内をうろうろしたりしていたが、夜になると家族のことが思い出され寂しかった。
 鹿児島まで何日かかったのか分からないが、とにかく無事に着いた。私たちはさっそく郵便局へ行き、「無事、鹿児島に着いた」旨電報を打った。鹿児島では、最初に飲んだ水道の冷たい水がとてもおいしかったことを、今でも忘れられない。
 翌日、宮崎県門川駅まで移動し、そこからはトラックで北郷村へ向かった。現地では村や婦人会の方々が出迎えてくれた。その晩、近くの北郷青年学校で婦人会の皆さんが赤飯などを準備して歓迎してくれた。

 いよいよ、北郷での団体生活がはじまった。宿舎は北郷国民学校の一教室を男部屋と女部屋に仕切って使用した。朝起きて、まず学校のそばの灌漑用の側溝で洗面をし、それから宮城遙拝、体操などが毎日の朝の日課だった。学校は、現地の児童と同じクラスに編入された。地元の子ども達とのトラブルは、少々あったもののたいしたことなく割にうまくいっていた。ある日、朝早く先生に起こされて、雪が降っていることを知らされた。皆んな初めてみる雪に感激した。雪合戦などをしてはしゃいでいたが、雪が解ける頃の寒さにはこたえた。

 厳しい寒さとひもじさにも悩まされた。日頃出される献立も、米と麦の混ぜご飯だったが、戦争がだんだん激しくなるにつれ、食糧事情もますます悪くなり、いつしかコーリャンばかりになっていた。しかし、そのような状態のなかでも誰一人病気もせず、元気で過ごせたことは、先生や寮母、世話人のおばさん方のお陰だと思っている。

 戦争も末期に近づき、先生から「沖縄が玉砕した」と聞かされたときは相当ショックを受けた。親兄弟は、皆やられたと思った。やがて終戦になり、先生がみんなを集め話したことがあった。「もう沖縄に帰れないかも知れない。帰っても誰もいないかも知れない。私たちはここで皆、力を合わせて一緒に暮らそう」と。私たちは悲しみで胸がはちきれそうだったが、じっとこらえるしかできない毎日だった。

 地元の人から先生が借りてきた田んぼにみんなで稲を植えたり、山を開墾してできた畑に芋を作るなど、私たちは自給の道を考えなければならなかった。宿舎も、軍払い下げの木材をもらい受けて、建築する計画もあったが、そのうち、沖縄への帰還が決まり、結局建てることはなかった。

 昭和21年10月5日、全員無事帰郷した。帰郷後、宇納間(うなま)会を結成し、現地との交流を今でも温めている。なお、私たち兄弟は、復員してきた兄に引き取られ、熊本から長崎経由で帰郷した。

(1999年 聞き取り)

PageTop