上田 大城 忠助(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文
| ID | 1171101 |
|---|---|
| 作者 | 大城 忠助 |
| 作者備考 | 出身地「上田」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県北郷村) |
| 資料名(別名) | 上田_大城 忠助_「宮崎疎開の思い出」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開、「伏見丸」、農作業手伝い、「海防艦」 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.954-956 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 上田 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 学童疎開に関する学校側からの説明は、親たちを字の公民館に集めて行ったと思う。 出発する数日前に、字名嘉地の屋号〈新沢岻小〉に荷物を先に届けた。その家は瓦葺きの比較的大きな住宅で、軒下には疎開参加予定者から届けられた荷物が山のように積まれていた。荷物の中身は、普段着23枚、着物2枚、毛布などの衣類が主で、あとは教科書だった。 出発の連絡は、学校からだったのか役場からだったか、はっきりとしないが前日に伝わってきたものと思う。疎開参加者は〈新沢岻小〉に集合した。その日の午前中までに三々五々集まり、簡単な説明があってその後に〈新沢岻小〉を出発した。私たちは名嘉地の平仲ビラの坂道から隣り字の小禄村松川へ抜け、そこから安次嶺、田原を通り山下付近へ通ずる最短のルートを徒歩で那覇に移動し、港に隣接する旭町の旅館に到着した。なかには家族に送られ馬車で旅館に着いた生徒もいた。私たちはこの旅館で1泊した。 私たちは翌日の午後、疎開船に乗り込んだ。船は港に接岸しており、船名は「伏見丸」と言った。多くの家族が見送りに来ていた。 父が私に向かって「万一、船が沈められたら、出来るだけ早く船から離れるよう泳ぎなさい」と注意したが、「これから船が出るのに縁起が悪い」とすぐさま母にたしなめられていた。 那覇港から同時に出港した船団は20隻以上を超えるものだった。私たちが乗った伏見丸が一番最後に出港した。乗船後、すぐ1人ひとりに対して救命胴衣が手渡された。伏見丸は船足も速く、先に出港し先行しているほかの疎開船を洋上で次々と追い越していった。ある疎開船を追い抜きざまに、それぞれの甲板にのりだした両方の学童らがお互いに口げんかを交わしたことを覚えている。私たちが乗船した伏見丸は、英国製商船を輸送船に転用したもので、船長は歴戦の猛者(もさ)、浮上する敵潜水艦の上に乗り上げ、船体を砕いたなどという武勇伝もどこからとなく耳に入ってきた。その武勇伝を裏付けるかのように船首にはいくつもの大きなへこみも見受けられた。また、軍艦のほか、飛行機による護衛も付いていたと思う。航海中、空襲警報が一度だけ鳴ったが攻撃を受けることはなかった。船は途中、一度も停船することなく、およそ1泊2日の航海であったと思う。鹿児島港には昼以降に着いたと覚えている。 私たちは鹿児島市内の旅館で1、2泊した。滞在中は銭湯にも行き、市電にも乗った。その後、疎開団一行は汽車で鹿児島を出発、門川駅に到着後、そこからトラックに乗り換え、北郷村に向かった。汽車に乗ったとき、なかには、通過するトンネルの数を数えた者もいて、それによると、全部で24のトンネルを抜けたと言っていた。 疎開団は、北郷国民学校前でトラックを下車、北郷校の生徒達が整列して出迎えてくれた。さっそく校門前で「歓迎式」が行われ、それぞれの学校代表があいさつを交わした。私たちの二豊疎開団代表は具志政六君、北郷校は大久保君と言う名の生徒だった。私たちが北郷入りした翌日ごろ、自分たちの荷物が届いた。 宿舎は、北郷校の一般教室が充てられた。廊下をはさんで男女に分けられ、畳敷きの部屋だった。布団、毛布類は準備されていたが枕はなかった。疎開中は初等科児童らは比較的学校で授業を受けていたようだったが、高等科はもっぱら軍事教練が多く、教室での授業は少ししかなかった。 ときどき、地元の人達から食べ物の差し入れもあった。団子(ダゴと呼んでいた)や餅などが主であった。 放課後、私たちはよく地元の農家の手伝いに出かけた。それはだいたい本人の意思によるもので、食べ物がもらえたからであった。私たちが手伝った主な作業は、麦踏みや炭焼き小屋での薪運びなどであった。なかには地元の農家の人に気に入られ、わざわざ指名され呼ばれる児童もいた。そして白米を食べたとか、風呂に入って帰ってきたり、泊まって来たりする者もいて、ほかの仲間達から羨ましがられていた。 宿舎での食事は玄米や麦飯、それに大根の葉のお汁などが主な献立で竹製のお椀(竹椀)でいただいた。竹椀は、ちょうど竹の節の部分が底になっているもので、それが上に盛り上がっていたり、下側にへこんでいたりしており、その違いでご飯の量も微妙に違っていた。なるだけ量の多い底のへこんだ竹椀を選ぶのにみんな必死だった。食事は上級生、下級生など力関係も大いに影響した。それだけいつもひもじい思いをしていた。 疎開した仲間で地元の学校に進学した者もいた。また、私たちは地元の生徒達と、よく対立して喧嘩することもあった。あるとき、集団同士で大喧嘩になり、大騒動を引き起こしたこともあった。 沖縄へ帰還する約半年前から「沖縄へ帰れる」という話はすでに私たちの耳にも入るようになっていた。そして約1カ月前あたりからは帰り支度を始めていたと思う。 沖縄帰還の際、私たちはまず北郷を出発し、トラックで門川駅へ向かった。そのときのトラックの運転手は鎌倉さんという名前の人だった。門川駅からは汽車に乗り、鹿児島に到着した。鹿児島では大きな収容施設のようなところに滞在した。そこで疎開団ごとに分けられ、兵舎のような建物に2、3泊滞在していたと記憶する。滞在中、相撲大会なども開催され、私はそれに参加した。 私たちは船に乗り込む前にDDT(シラミなどの駆除剤)を身体中散布され、さらに肛門にビンのようなものを差し込まれ検査を受けた。 出発前、たぶん国からだったと思うが罹災金として一人あたり千円の支給があり、鹿児島港で引率の宇久里先生からそれぞれ受け取った。鹿児島滞在中、そのお金で鍋などの日用道具を購入するしっかり者もいた。 沖縄へは「海防艦」に乗船し、鹿児島港を出発した。その帰還船は、船室の天井がやたら低く、一行はいくつかの船室に分けられ、船内で1泊を過ごした。一豊疎開団の一部も同じ船に乗っていたと記憶している。私たちを乗せた船は那覇港に到着した。港には出迎えなどなく、下船した私たちはそのまま米軍のトラックで久場崎へ移動した。久場崎に着くと、そこでも再度DDTの散布を浴びた。久場崎で1泊後、トラックで豊見城村へ。私たちは座安小学校に到着した。多くの家族や親戚、知人らが私たちを出迎えてくれた。 (1998年 聞き取り) |
