豊見城 大田 安男、長嶺 清次(学童疎開 宮崎県上野村)_1_全文

ID1171091
作者大田 安男、長嶺 清次
作者備考出身地「豊見城」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)豊見城_大田 安男、長嶺 清次_「学童疎開について」_1_全文
キーワード疎開体験談、学童疎開、潜水母艦「迅鯨」、一力旅館(鹿児島市)、上野村、農作業手伝い、再疎開、大分県佐田村
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.952-953
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
豊見城
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 学童疎開には親の勧めがあって参加した。当時、沖縄はいずれ戦場となるので、疎開を勧める動きがあったものと思う。疎開行きが決まったとき、家族と別れるのは辛かったが、一方で本土へ行けるという気持ちのほうが強く、正直、本土行きは嬉しかった。
 出発までは、いつ出航の連絡が入ってくるのか分からなかったので、私たちはしばらくの間、自宅待機を余儀なくされた。各自の持参品は最低限お椀2個と布団1枚は全員準備したと思う。

 出発は、たしか昭和19年8月30日だったと覚えている。三重城から上陸用舟艇で沖に向かい、大きな軍艦に乗船した。これが潜水母艦「迅鯨」であった。疎開船は朝の5時ごろ出港した。ちょうど、武部隊の軍旗祭が9月10日に予定されていて、それを楽しみにしていた矢先だったが、私たちはその前に沖縄を後にしたのだった。
 乗船した私たちは甲板で一夜を過ごし、出港した翌日11時頃、鹿児島に到着した。鹿児島市内の一力旅館に一泊してのち、日豊線で延岡まで行き、さらに延岡で日之影線に乗り換え、日之影駅まで移動した。日之影からはトラックで上野へ向かい、昼12時30分ごろ現地に到着した。いよいよ疎開生活が始まるのだという複雑な気持ちになった。
 私たちが到着すると、大勢の上野村の人達、そして上野国民学校のブラスバンドが大歓迎で出迎えてくれた。宿舎は上野国民学校と正念寺のふた組に分かれ、私たちは正念寺にお世話になった。

 正念寺の宿舎では、食糧自給のため、寺の庭をみんなで耕してサツマイモを植え付けるなどした。その後、戦後になってから正念寺組の疎開団はそこから少し離れたところにある種馬所跡へと宿舎を移動している。
 学校では、ときどき沖縄人と馬鹿にされるときもあり、悔しい思いをしたこともあった。冬などは沖縄と違って雪は降るし、そのような中、素足に草履履きで通学するのはたいへんだった。また毎日の食事も、流動食のような麦飯ばかりで、それも腹八分の量さえなく、いつもひもじい思いをしていた。寂しさも日が経つにつれ次第に大きくなり、よく寺の山門の石段にところに集まっては、沖縄の方角に向かって歌を歌ってお互いを励ましていた。そのとき歌った「さらば沖縄よ、また来るまでは」の歌は地元の方々も今でもよく覚えて下さっていた。

 上野での疎開生活を送っているなかで、地元の人手不足の農家から要請があり、ときどき農作業を手伝いに出かけたこともあった。そこで出される弁当や食事がとても楽しみだった。

 大分県に再疎開するようになった理由は、引率の宜保信子先生の叔父さんが大分にいて、ちょうど朝鮮の人達が引き揚げ、空いたままになっている田畑があるので、そこで自給自足できるよう生活したらどうかとの誘いがあったからだと思う。このまま沖縄へ帰還できず、疎開先で長期滞在となることを思えば、どうしても地元になるだけ迷惑のかからないよう自給自足の道を選んだのだと思う。再疎開地の大分県佐田村へはトラックで移動した。

 佐田村に再疎開した私たちは、さっそく自分たちで田や畑を耕し、稲を植えた。上野より生活のほうも少し楽に感じた。そして佐田村で生活するようになって1カ月くらいしてから、沖縄へ帰れることを知った。
 佐田村では学校へはほとんど行かなかったうえ、地元の人々との関わりもあまりなかった。どういうわけか、国からの補助金を受け取りに行くため、佐田村に着いてから後日、宮崎の上野郵便局まで出かけて行ったことを覚えている。大小堀松三先生に長嶺清次が同行した。

 沖縄帰還の際は、まず佐田村を出てから、国鉄大村線で南風崎駅に到着、佐世保引揚援護局で3、4泊してのち、佐世保港沖合に停泊していた海防艦を改造した船に乗船し沖縄へ向け出発した。沖縄に到着した私たちは、まず、久場崎で1泊し、豊見城へ帰ってきた。自宅に着いたのがちょうどクリスマスの前日、昭和21年12月24日ではなかったかと記憶している。宜保信子先生引率の学校組は、私たち正念寺組よりずいぶん先に帰郷したと思う。私たち疎開団のなかには、戦後になってから、復員や引き揚げてきた家族親戚などが迎えにきたりして、沖縄に帰るときには、最初の全員ではなかった。

 あの時代のことを思い出すと、本当に辛いことばかりが頭を過ぎり、今でもぞっとすることがある。戦争は二度とあってはならないと思う。

※お二人への聞き取りを、一人称に書き換え、掲載してあります。(1999年 聞き取り)

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