那覇市 上原 信子(宜保 信子)(学童疎開 宮崎県上野村 引率教員)_1_全文

ID1171081
作者上原 信子(旧姓・宜保)
作者備考出身地「那覇市」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)那覇市_上原 信子(旧姓・宜保)_「疎開学童を引率して」_1_全文
キーワード疎開体験談、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開、引率、宮崎県上野村、校長試験(全校学力テスト)、大分県佐田村、再疎開
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.950-952
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村那覇市
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 昭和19年、私は沖縄師範女子部専攻科を卒業すると同時に豊見城第二国民学校に就職した。そんな折り、父が「沖縄に馬(軍馬)が上陸しているから戦場になるかも知れない」と言い、それを契機に本土疎開をすすめるようになった。ちょうど、学校でも学童疎開の引率者を探していた時期で私がそれに応募したらすぐさま許可された。「めくら、蛇に怖じず」とは、その頃の私のことであっただろう。

 疎開者一行90人が着いた所は、大分、熊本、宮崎三県の境近くに位置する宮崎県上野村であった。そのうち48人は、大小堀松三先生の引率で上野国民学校から4キロくらい離れた正念寺というお寺にお世話になった。私が引率した42人は学校敷地内に宿泊、私たち疎開団のために準備された竹葺きの小屋が宿舎だった。
 疎開先では沖縄より厳しい寒さに震え、手足のしもやけに苦しめられ、ひもじさにも耐えなければならなかった。さらに家族とも離ればなれで寂しい毎日でした。

 上野校での初めての運動会の日のことである。「那覇市全滅」との放送が突然スピーカーから流れた。10.10空襲(十・十空襲)である。部屋に戻ってみんなでワァーワァー泣いた。そんな中、上野の皆さんの心優しい気遣いに感激したことを覚えている。その日、結局運動会は中止となったが、地元の皆さんが、持参した弁当をそっくり疎開学童のために置いていって下さったのだ。そのほか、農作業の手伝いに行ったときなど、大きなお握りを頂いた時の子ども達の表情は忘れられない。村役場の疎開係の江藤さんが疎開団のために炭焼き窯をつくって下さったり、食糧の差し入れをして頂いたり、多くの村民に支えられた上野村での2カ年でした。

 学校では「沖縄の子は標準語がうまい」とか「学力は上だ」とか、そういったヒソヒソ話を聞いたこともあった。そんな頃、上野校で校長試験(全校学力テスト)が実施され、1年、4年、6年のトップは沖縄の子だったのだ。それが上野で非常に話題になったという話を後になって聞いて喜んだ。

 疎開生活も長引き、いつ沖縄へ帰れるか分からない、といったそんなあるとき、大分にいる宜保徳昌叔父さんのすすめで大分県佐田村へ再疎開した。昭和21年7月のことである。佐田村には朝鮮の方々が引き揚げたあとの田畑が空いたまま残っており、そこで自給自足をさせようとのことであった。その田んぼを借りてみんなで田植えも行った。

 そうこうしているうちに、沖縄帰還が実現した。あの頃、縮こもって小さくなっていた子どもたちも今では立派に成長し、職場ではもう定年を迎える年齢になる。この子らとの疎開を通し、豊見城村と高千穂町(上野村は高千穂町と合併した)との姉妹都市提携も実現し、つい、先日は上野国民学校でお世話になった恩師4人をお招きし、旧交を温めた。第二の故郷、上野村(現・高千穂町)との交流は一生続けるつもりです。
 上野村の皆さん、たいへんお世話になりました。高千穂町の限りない発展をお祈りします。ありがとうございました。〈当時・学童疎開団引率教員〉

(2000年 聞き取り)

PageTop