宮崎県北郷村 日高フクエ(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文

ID1171071
作者日高フクエ
作者備考出身地「宮崎県北郷村」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県北郷村)
資料名(別名)宮崎県北郷村_日高フクエ_「沖縄の子どもたちの思い出」_1_全文
キーワード疎開体験談、供出、学童疎開(受け入れ側)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.948-950
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名宮崎県
市町村美郷町(旧北郷村)
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 昭和20年ころは、私は25歳で夫の由吉は32歳だった。私たち夫婦は子どもに恵まれなかったが、夫は子どもが好きで、どんなにか自分たちの子がほしかったかと思う。そのころ、沖縄の子どもたち4、5人が農作業の手伝いで家に来るようになっていた。
 ある夕方、私が夕飯の準備をしていると、家で遊んでいた子の1人、大城秀夫君が右手を折ってしまった。びっくりした夫と北郷国民学校の若い北先生が秀夫君を自転車に乗せて入下の病院へ連れていった。帰ってきたら右手を包帯でぐるぐる巻いて、肩から吊してかわいそうだった。_
 この子のケガは、大勢の子どもたちがいる寮(北郷国民学校)では治るのも遅くなるかも知れないと心配になり「ケガが治るまで1カ月ぐらい家で預かろう」ということになった。

 11月ごろになると山間の村だから底冷えがする。秀夫君をはさんで川の字になって寝ていたら、たまたま別のふとんに寝ている当銘保亀君が夜中に起き出して「おじさん寒くて寝れないから一緒に寝かせてくれ」と言う。
 夫は保亀君もふとんに入れて「秀夫にさわるなよ、傷に当たるから」と言った。「今夜はおじさんのそばに寝ていいが、もう来てはいけないぞ」と、先生の眼をぬすんで来ている保亀君をたしなめていた。翌朝は早くに起こして「先生に知られんうちに寮にもどれ」と帰した。
 保亀君は秀夫君がいるから、いつも私たちの家にきて「秀夫いいなあ、秀夫は温かいふとんに寝て、腹いっぱい食べられるからなあ」とうらやましがり、いつも「おじさん、おじさん」と寄って来た。そんな保亀君を叱りつけて帰せなかった。

 戦争中だから米を出せ、麦を出せと軍隊への食糧供出も厳しい時だった。もう強権発動の一歩手前といった感じで、集落にいくら出せと割り当てされた。夫は民生委員をしていたので、区長の新田さんと一緒に自転車で各家庭を回って米や麦を集めていた。兵隊さん、組合長さんもついて来て各家庭から米や麦を集めるのは、それは大変な作業だった。どこの誰が割り当てを出さんから、秋盛区では供出量に足らないだとか、出す方も集める方も必死だった。

 そんなころ、国民学校の校長先生が沖縄の子どもたちがかわいそうだと、自分のふとんをかかえて寮に行ったという話も聞いた。たぶん12月10日だったと思うが、その日はお祭りがあった。沖縄の子どもたちは履物がなくて裸足で祭に来ていた。寒い時で痛々しくて見ていられなかった。
 昭和20年3月末頃、家では大城秀夫君の手のケガも治っていた。秀夫君は元気なわんぱく者だった。そうしたら先生の紹介で今度は成績の良い子、大城宏一君と秀夫君が入替えになった。宏一君が6年を卒業したので中学の入学試験を受けさせた。地元の高橋正夫君と成績を競っていた。
 担任の先生の話では「宏一君の成績はすばらしいが、よその集落に来て遠慮しているのか、本当の力を出していない」という。主人は宏一君に夕飯を食べながら「宏一、おまえは高橋正夫君に遠慮して我が力を出さんというではないか!おじさんがついているから精一杯頑張れ!」と言っていた。

 延岡中学に受験した2人は合格した。夫は宏一君の親がわりになって入学式に行った。ところが、その日から延岡は米軍の空襲があって、入学式はとりやめになった。空襲が多いので延岡中学には入学できなかった。そのかわり西郷村の田代分校に入学した。その時は「仕事が忙しいから、宏一ひとりで行け」と夫は行かなかった。日曜日になって帰ってくると、服にノミではなく、白いシラミをたくさんつけてきた。
 他の子どもたちも麦刈りやらの農作業を手伝ってくれていたが、ダルマケ(水虫)にかかって苦労していた。未熟な人糞を畑にまくから、足に菌が入って、化膿して水ぶくれになる。かゆいやら痛むやら、でも薬もなくて、夜も寝れない。

 食べ物のことは、沖縄の子どもとは比較にならないが、この村の人たちもきつかった。ほとんどの男たちは軍に徴用されて船の修理やらで、村には年寄りや女子供ばかりが多かった。
 沖縄の子どもたちは、食糧費いくらと予算もあったと思うが、大勢の子どもたちの腹を満たすだけのものはない。寮のカシコさんやおばさんたちが買い出しに行ってもさつまいもさえ満足に買えなかったはずだ。
 ある時、沖縄の子が畑から麦をとって、それをもんで空缶に入れ、校舎の床下で炊いているのをみつけて、きつく叱ったことがあった。あのころは農家も苦しかったから、みんなが鬼のようになっていた。
 地元の子どもが盗っても、沖縄の子が盗んだのだろうと、ぬれぎぬをきせられたこともあったろう。
 私たちの家に来た子は多くて名前や顔も覚えていないが、宏一君、秀夫君、保亀君のほかに、麦刈りの手伝いや遊びにいつも4、5人、多い時には10人も来るものだから、にぎやかだった。でも、戦争も終わり、50人あまりの子が全員無事に沖縄へ帰れたのは宇久里先生のおかげだと思う。厳しかったけど、子どもたちのことをいつも本当に心配していなさった。

(1994年10月22日 聞き手・村史編さん室 宜保喜久)

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