宮崎県北郷村 日高フミ(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文
| ID | 1171061 |
|---|---|
| 作者 | 日高フミ |
| 作者備考 | 出身地「宮崎県北郷村」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県北郷村) |
| 資料名(別名) | 宮崎県北郷村_日高フミ_「大鍋でンムニーをつくる」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開、学童疎開(受け入れ側) |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.947-948 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 宮崎県 |
| 市町村 | 美郷町(旧北郷村) |
| 字 | |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | |
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| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
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| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 学童疎開と一緒に宇久里先生と奥さんが引率の先生として来ておられた。子どもたちの生活の面倒をみていた大城さんという方もいた。 あのころは、それこそ食糧が不足していた。唐芋(さつまいも)を大鍋に炊いてネッタリ(ンムニー)にし、竹の椀に入れて食べていた。さつまいものほかに何か混ぜていたが、米もほんの少しは入れているようだった。 このあたりの農家では、ネッタリにモチ米を混ぜていたが、そのころになるとモチ米もなかったのだろう。 学童疎開とは別に沖縄から何人かの家族がこの辺(入下)にも来ていた。初めのころは、沖縄のお土産として黒砂糖をもらったこともある。戦争中は砂糖がないから重宝した。家族疎開の方も食糧不足は深刻で、知念さんという方は、道端やあぜ道にはえているオオバコの葉を採って、お湯でゆがいて食べていた。この辺では、オオバコを薬草にしているけど…。 あのころは、こちらの子どもたちも長ズボンははかせなかった。苦労に耐えること、体を鍛えなくてはいかんという理由からであった。それにしても沖縄の子たちは、夏服では重ね着しても冬は寒かっただろう。 沖縄の子どもたちは、国民学校の裁縫室などに寝泊まりしていたが、そのかたわらに奉安殿があって、校庭に防空壕を掘っていた。壕は消防の人が交代で毎晩つめていた。また、青年学校の裏山をクリ山と呼んでいたが、そこに2人ぐらい入れるタコ壷も掘っていた。 宇久里先生は、背の低い方でがっちりしていた。奥さんと大城さんだったか、大きなシャモジでネッタリを混ぜるのに釜に片足をかけているのを見て、子どもたちが「あそこのおばさんたちは釜に足を上げている」と話していた。いつも30人ぐらいの食事を大釜で作るのは、力のいる大変な仕事だったようだ。 |
