宮崎県高千穂町(旧岩戸村) 工藤 明良、佐藤 良市、井植 泉(学童疎開 宮崎県岩戸村)_1_全文
| ID | 1171051 |
|---|---|
| 作者 | 工藤 明良、佐藤 良市、井植 泉 |
| 作者備考 | 出身地「宮崎県高千穂町(旧岩戸村)」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県岩戸村) |
| 資料名(別名) | 宮崎県高千穂町(旧岩戸村)_工藤 明良、佐藤 良市、井植 泉_「掘ってみたらイモづるだけ」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開(受け入れ側) |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.946-947 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 宮崎県 |
| 市町村 | 高千穂町(旧岩戸村) |
| 字 | |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
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| 年月日(和暦)(終) | |
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| 年代(和暦) | |
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| 始期(月) | |
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| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 戦争中はどこも食糧事情は悪かった。沖縄から来た子どもたちの食料のたしにするため、岩戸国民学校の上級生全員で荒畑を開墾して約20アール(600坪)のさつまいも畑にした。この開墾作業は、引率の仲西先生と国吉先生が先頭に立って進められた。 耕した後には、低学年の子どもたちが唐芋の苗を植えた。収穫は昭和21年になってからだったと思うが、仲西先生たちが掘ってみると、イモはまったく付いてなくイモづるだけで「掘っても掘ってもイモは出ない」と先生方は泣いていた。 実は、ひもじい思いをしている沖縄の子どもたちが、先生の目をぬすんで、畑のイモを全部ほじくって生のまま食べてしまっていたのだった。 豊見城の子どもの中でも、5、6年の上級生は近くの農家の手伝い、女の子は子守などに行っていた。「花田」という旅館の跡を寮にしていたが、いつも15、16名は農家に宿泊し、4年生以下の低学年の子どもたちは仲西先生や国吉先生と一緒に寮にいた(花田は、岩戸神社のすぐ近くにあって、戦後は「青柳」という飲食店になったが、廃業し、現在は建物もなく空き地になっている)。 私(工藤明良)の家には、外間ゲンスケ君ら2、3人が泊まり込みで手伝いに来ていたが、この子たちを頼って沖縄の子たちが10人も20人も遊びに来た。その時は芋が腹いっぱい食えることが楽しみでやって来たのだろう。それと蓄音機があったので、童謡をかけて皆で歌ったり、家の中で運動場みたいに遊びまわり、それはにぎやかだった。 |
