嘉数 比嘉 弘正(学童疎開 宮崎県上野村)_1_全文

ID1171041
作者比嘉 弘正
作者備考出身地「嘉数」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)嘉数_比嘉 弘正_「学童疎開の思い出」_1_全文
キーワード疎開体験談、対馬丸、豊見城第一国民学校(長嶺小学校)、潜水母艦「迅鯨」、宮崎県上野村、再疎開、大分県佐田村、赤痢
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.945-946
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
嘉数
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 昭和19年、私は第一国民学校の生徒70数名と共に、疎開先の宮崎県の上野村に向け、那覇港を出港した。私達には、引率の先生と何名かの世話人が随行した。私の家からは姉も疎開した。私達が乗った船は那覇港の沖に停泊していた潜水母艦「迅鯨」であった。
 出発の日の見送りは親兄弟だけであった。非常時なので親戚とか知人の見送りは無かった。又出港日時は誰にも知らされていなかった。出港するまでは那覇市内の旅館に宿泊していた。
 当初の出港は、それより前に予定されていた。その時も、私達は市内の旅館に集められ、そこで3、4泊して出港の日を待っていたが、対馬丸が撃沈されたという噂が飛び込んで来て出港は延期になり、各自は一旦家に帰され、次の出港を待っていた。

 私と姉が疎開にふみきったのは、兄が学校の教師をしており、「自分の家から疎開に行かないと、ほかの人に勧められない」との兄の強い意向があったからである。 又、学校からも家庭訪問があったり、村か軍かは知らないが、そこからも勧めがあった。

 海路の途中、「敵艦!発見」との声で夜中に起こされたのがつらかった。
 私達一行は鹿児島の港で下船し、鉄道で宮崎県の日之影まで行った。そこから今度はバスを乗り継ぎ、上野村の上野国民学校に着いた。地元の人達は私達の荷物を運んだりして手伝ってくれたので、大変助かった。私達は上野村では「お寺組」と「学校組」とに分けられた。私は学校組で同国民小学校の運動場の片隅の小屋に住んでいた。

 食事は、配給食や世話人逹が炊事をしてくれて、1日3食はあったが、主食は麦飯のオカユのようなものだった。たまには白いご飯もあったが、弁当箱の底に少し入っている程度であった。他には、唐芋、トウモロコシ等があったが、いつもひもじい思いをしていた。そのひもじさに耐えきれず、悪いなあと思いつつも、地元の農家が冬場、保存用として土手などに埋めてある芋を無断で掘って食べたこともあった。
 地元の人は親切だった。時々、差し入れをしてくれたり、又家に招待をして御馳走してくれた。冬は寒かったのでふとんなども貸してくれた。地元の生徒も親切だった。中には意地悪な子もいたが・・。

 私達は半年以上も滞在したここ上野村から大分県の佐田村へ移動した。引率の宜保先生の親戚を頼っての佐田行きであった。昭和21年の6月頃で、生徒数約40名ぐらいだったと思う。私は同村の矢津に約3か月ぐらい住んでいた。ここでも食事は配給があったが、栄養失調で皆痩せ細っていた。又風呂もほとんど入る事が出来ず、ノミもシラミもたくさんいて、手で潰しても間に合う数ではなかった。又、時々田草取りなど農家の手伝いをする日もあった。

 そんな折り、一人の疎開仲間が伝染病にかかった。字豊見城の出身者だったと思うが、1人だけずっと隔離されて可哀想だった。しかしついに帰ってこなかった。

 疎開先での戦争体験はほとんど無く、宮崎県にいる時に1、2回ほど空襲警報が鳴り響き防空壕に避難した事ぐらいのものである。隣町の高千穂町は空襲でやられたようだった。終戦はそこで知った。
 長い疎開生活を終え、昭和21年11月にやっと沖縄に帰れた。那覇港に下船し、そこからコザの「インヌミヤードゥイ」(沖縄市高原)に集められた。その翌日だったかどうかは覚えていないが私は故郷の豊見城へ移送された。そして、久し振りに親と再会できた時には何ともいえない思いであった。

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