嘉数 比嘉 洌子(学童疎開 宮崎県上野村)_1_全文

ID1171031
作者比嘉 洌子
作者備考出身地「嘉数」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)嘉数_比嘉 洌子_「学童疎開の想い出」_1_全文
キーワード疎開体験談、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開、対馬丸、再疎開、赤痢
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.942-945
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
嘉数
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 戦争がいよいよ激しくなり、沖縄決戦必至とみた国は、非戦闘員である住民に対しても本土疎開を勧告するようになった。7人兄弟の末っ子で唯一学童疎開の年齢に該当した私も母や兄たちに勧められ家族と別れて疎開することとなった。
 母は私に「あんただけでも命が助かってくれれば」と本土行きを説得した。それでも家族との別れを嫌がる私に「親の言うことは聞いておくものだ。あんたが大人になったとき私の気持ちもきっと分かってくれるから」とまるで別れを覚悟した遺言のような言葉だった。母はさらに本土の気候のことなどを説明しながら「身体に気をつけて人に負けないようにしっかり勉強してね」と沖縄に残る兄たちとともに私を励ましてくれた。支那事変に従軍した経験を持ち、当時役場勤めだった兄も疎開行きを強く勧めていた。年下の従姉妹の女の子も私が参加するなら行くと言っていたようで、叔父も私が疎開を渋っていたことに対し、だいぶ気を揉んでいたようだった。
 渋々ながら疎開行きを納得する私の肩に、母は両手を置きいろいろな話を説いた。母の表情から13歳の私を手放すことへの不安と忍びなさが手に取るように伝わってきた。

 上野村(かみのむら)へ
 学童疎開に参加する児童の中には、6歳になる1年生や7歳の2年生など最下級生も含まれていた。こんな小さな子も行くのだからと周りからもさらに励まされ私の疎開行きへの決心は固まった。
 昭和19年9月11日、お昼の12時ごろ、私たち疎開団は軍艦に乗船し那覇港を出発した。ほぼ1日がかりで無事鹿児島に到着した。しかし私たちの出発前、那覇市の学童約800人を含む約1660人を乗せた対馬丸が敵潜水艦に沈められたという悲報を聞いたときには、正直言って背筋がぞっと凍りついた。
 鹿児島で数泊した私たちはその後汽車で宮崎県へ向かった。汽車の中では『さらば沖縄よ/また来るまでは/しばし別れの涙がにじむ/』とラバウル小唄の替え歌が口ずさまれ大合唱となった。
 沖縄とはどこか違う外の風景につい身を乗り出し、トンネルでは窓を閉め遅れ、真っ黒に汚れた顔で延岡駅に到着した私たちを、地元国防婦人会の人達が大勢待ち受けていて私たちを歓迎して下さった。中には私たちの姿をみて涙を流す人もいた。
 さらに汽車を乗り換え、私たちは高千穂の険しい山や深い谷川をぬって上野村へ着いた。

 盛大な歓迎
 私たち疎開団は上野国民学校の田崎校長先生や係の江藤博方さん(村役場)に案内され上野村入りした。大勢の村民の方々や国民学校の生徒が日の丸を振って迎えてくれ、ブラスバンドの高鳴る中を公会堂へと歩みを進めた。公会堂では婦人会の方々の温かいもてなしを受け、長旅で疲れたことなど一気に吹き飛んだ。私たちにとっては珍しかった竹の皮に包まれたお握りのおいしかったこと。今でも忘れることができない思い出である。

 10.10空襲(十・十空襲)の悲報
 上野村に来て学校生活にもようやく落ち着きをみせはじめた昭和19年10月10日のこと。その日は上野国民学校の大運動会の開催日だった。沖縄の子ども達も本土の学校で初めて体験する運動会ということで張り切って開会を待っていた。しかし開会式の直後、いきなり空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、晴れ上がった青空にB29爆撃機一機がトンボのように悠然と現れた。その後、沖縄も空襲でやられたとの情報がすぐに私たちの耳にも伝わってきた。運動会に参加した人々全員がすぐに避難する騒ぎとなった。さいわい上野村では空襲はなかったものの、結局この日の運動会は延期となった。
 その日の昼食時、スピーカーから「沖縄の生徒たちに持参したお弁当を分けてあげて下さい」とのお知らせがあり、たちまち山のような弁当が私たち疎開学童に届けられた。
 上野村の人達の優しい気遣いに感謝しつつも、宿舎に戻った私たちの脳裏からは那覇市全滅との情報がずっと離れない。不安を隠すこともできず、つぎつぎ泣き崩れる者も出て、誰も正念寺の山門から立ち去ろうとはしなかった。豊見城村は那覇市街に続いているから家族の安否で小さな胸は張り裂けんばかりであった。心配した正念寺の住職さんや奥さん、そして大小堀先生からなんとか励まされ、勇気を振り絞り次の日からまた元気に過ごすことができた。

 上野村から佐田村へ
 上野校での思い出は食糧や衣服の不足、冬の寒さなど辛いことも多かったが、楽しい思い出もあった。数カ月に1回は岩戸村へ疎開した一豊の仲間が正念寺へやってきて、一緒に歌を歌ったりおしゃべりを交わしたりする楽しい交歓のひとときもあった。
 さらに卒業と同時に私は高千穂実業高校に入学、そこで勉強させてもらえる幸運にも恵まれた。しかし時間が立つにつれ故郷沖縄に帰りたいと思う気持ちが次第に強くなっていった。同郷の仲間たちのなかにはこっそりと荷物をまとめて帰り支度などをし、寮の先生を困らせた人もいた。私も学校が休みのときには寮から上野村へたびたび足を運び、先生方や後輩たちに会うのが唯一の楽しみとなっていた。
 そんなある日、疎開団は上野を離れ、大分へ移動することが決まり、私もそれに付いていくことにした。移動先の佐田村(大分県)でも上野村にいたころと同様、正念寺組と学校組に分かれ、2つの宿舎で生活していた。そこでは畑を開墾し麦や米を栽培するなど自給自足の生活を目指していた。佐田村に移動して間もないころ、私は押し麦にする作業のため、村の作業場に仲間と2人で出掛けた。慣れない作業に戸惑い、服の裾をベルトに巻き込まれ、指を切断する大ケガをしてしまった。ひと月以上、地元の病院に通った。そのほか佐田村では疎開学童の仲間から2人が悪性の赤痢に感染し、還らぬ人となった悲しい出来事もあった。

 上野村へのご恩
 疎開生活を送るなかで、上野村の方々からお寄せ戴いたご厚情は数え切れない。おいしく戴いた柿、だご(団子)、麦粉、お米、布団や草履などの日用品まで、ほんとうにたくさんの心づくしと品々を戴いた。おかげで私たちは元気に沖縄に帰ることができた。
 心から願った沖縄への帰還は昭和21年秋のことだった。しかし戻ってみると母や兄、姉が戦死、甥や姪もやられ、家族から合計8人が沖縄戦の犠牲となっていた。
 もしあの戦争で宮崎へ疎開せず、沖縄にそのまま残っていたら、今の私はなかったのかもしれない。だから上野村のみなさんの御恩は山よりも高く、海よりも深いものだと、今あらためて生きながらえた幸福を感じている。

※この手記は昭和50年3月発刊、高千穂町立上野小学校『創立百周年記念誌』から抜粋加筆修正したものである。
(1999年10月聞き取り)

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