長堂 赤嶺 牛一(学童疎開 送り出し) 1 全文

ID1171021
作者赤嶺 牛一
作者備考出身地「長堂」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開
資料名(別名)長堂_赤嶺 牛一_「部落を挙げて集団疎開」_1_全文
キーワード疎開体験談、学童疎開、疎開送り出し、対馬丸、宮崎県、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.940-942
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
長堂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容昭和16年12月、わが軍は宣戦布告するや破竹の勢いで南方方面の要所、要所を殆ど占領した。が、中盤からは連合軍が物量にものをいわせ、これまで我が軍の占領した要所は、片端から奪われた。19年の中旬には、南洋群島のサイパン及びテニアンまでも、彼等の手中におち、もはや沖縄も嵐の前の灯と化したのである。このような状態に至っては、沖縄も近々戦場化するのは必至である。県においては、戦争に協力出来ない児童及び老人等は速やかに、本土の各県に疎開するよう勧めており、部落の集団疎開及び学童疎開等が始まったのである。

 この機に、私達の部落でも字の幹部の打合せにより、宮城〇〇氏を引卒責任者として、部落を挙げて(県の指定する)宮崎県へ集団疎開する事が望ましいという事になり、早速父兄へ呼びかける事になった。そのまとめ役として、私と比嘉〇〇君が当たる事にし、まずは早目に父兄を集める事にした。
 なお、県の方針等疎開に対する具体的な方策等に就いて話してもらうために、一豊(豊見城第一国民学校)の大城利秀校長をお願いし、懇談的に話合いを進めた。事は大変重大であり、集まった皆さんも真剣で細かい処まで質疑応答の結果、殆どの皆さんが賛意を表し、83人が集団疎開する事に決まった。しかし何時船が来るか不明であるので、いつ連絡が来てもこれに間に合うよう諸準備をしておく事になった。役場からは、5日後の8月18日の夜8時ごろ連絡があった。明19日午前7時までに、那覇港の近くに集合せよとの連絡。早速、比嘉君と2人で各戸連絡はしたが、余りにも突然だったので、一部の父兄の反対もあった。が、結局連絡通り先に決まった全員が疎開する事になった。しかし、那覇港までの乗り物は何もない。子供や老母等、皆さん徒歩である。連絡した全員、通夜で、準備して翌19日、一行83人那覇へ向かった。予定の時間に那覇港近くへ行ったら、貨物船が沖に停泊して居る。係に問い合せたところ、船は何時に出帆するか、不明であるので、疎開者なら、早く荷物を沖の船に運んでおけとの連絡である、比嘉君と二人で83人の荷物を小舟で運ぶこと数回、漸く運び終るや汽笛も鳴らさずに、船は出帆した。私達の疎開者は全員乗船したので、まずは、ひと安心といったところだが、一部の疎開者及び客は乗船出来ず、右往左往、入り乱れて、大変な騒ぎであった。疎開した翌日から、部落では遊ぶ子が見えない。その寂しさは、疎開した家族だけが、味わう寂しさだと思った。ほんとに耐えられない気持ちであった。私も二女と2人だけ家に残り、妻、子供、孫7名も疎開したので、その寂しさは大きかった。その耐えられない気持ちが私と比嘉君の2人に向けられ、大変な毎日を送っていた。
 私達は長堂の将来を憂い、これが最も賢明な策だと思って疎開を勧めたものの、疎開者を乗せて出帆した船は、消息もわからない。8月21日便、つまり3日あとに出帆した対馬丸は、敵の魚雷に逢い沈没した由、種々の悪い情報が入り乱れて、沖縄中大変な騒ぎである。私は、疎開者一行の無事到着の報を得るまでは、夜もロクに眠りに就けない状態が続いた。

 1ヵ月ほど後に、無事宮崎へ到着した由の報に接した時は、手の舞足の踏む処を知らず、とはまさに此の時だと比嘉君と二人喜び合った。しかし、疎開先からは各家庭への連絡は、現地は食糧の配給が乏しく、大変貧しい生活を続けている由、等、その不満も私達二人に向けられ、全く身の置き所がない毎日だった。

 10月10日未明、東の空から西へつぎつぎ飛来した戦闘機は最初は友軍機かと思ったら、那覇空港へさしかかるや爆音とともにたちまち黒煙をあげ、那覇方面は、1日中、つぎつぎ爆音の連続で空襲となった。一瞬のうちに那覇の町は、焼け野原と化してしまったのである。沖縄が戦場と化した当時、疎開地でも那覇の空襲や本土各所における空襲の実態等を、よく認識し、ほんとうに疎開してよかったと喜んだという。沖縄においても、このような戦争のこわさと、つぎつぎ起きる本土各地の爆撃騒ぎ等で、戦争の実態をよく認識するようになり、部落でも皆さん、異口同音に、子供達を集団疎開させてよかったと喜ぶようになった。

 疎開した後の部落に残った人口は169人だったが、戦争が済んで生き残ったのは83人で、結局戦死者が86人で、半数以上が亡くなった事になる。終戦後は全く寂しい思いであったが、疎開から81人の皆さんが帰って来たので、部落は、一気に明るくなった。

 疎開先で老婆1人、乳飲子1人が亡くなったが、これは食糧の欠乏による栄養失調が原因であって、やむを得ない事だったと思っている。

(1981年1月寄稿)

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