饒波 大小堀 松三(学童疎開 引率) 1 全文

ID1171011
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目公的機関
細項目学童疎開(引率)
資料名(別名)饒波_大小堀 松三_「疎開学童引率の苦闘」_1_全文
資料内容潜水母艦「迅鯨(じんげい)」で発つ
 対馬丸遭難の噂が流れているさ中の昭和19年8月30日、豊見城村第一国民学校180名の学童は、4人の教師に引率されて、思いもよらず潜水母艦「迅鯨」に乗船、敵潜水艦の遊弋(ゆうよく)する海上をジグザグコースを辿り、桜島の噴煙に迎えられて鹿児島に無事上陸した。
 日豊線の煤煙で汚れた顔を拭う暇もなく駅頭で受けた延岡婦人会の大歓迎に驚いた。おにぎりと湯茶の接待を受けてから、 日の影線 に乗り、目的地の上野・岩戸へ向かった。沿線は、神代そのままの古代の自然を思わせる五ヶ瀬川の渓谷を左右に眺める景勝の地。でも、やまとに一種の憧れを持って来た子どもらは、ここがヤマトと、がっかりした表情を隠しきれなっかった。
 目的地上野に入ると、沿道を埋める村民や学童の、ブラスバンドを鳴り響かせての大歓迎。竹の皮で包んだおにぎり、すしなど婦人会の大サービスを受けた後、学校宿舎組と正念寺宿舎組に分かれて、いよいよ疎開生活の第一歩を刻むことになった。

 受け入れ整った疎開地
 私たちは、学校(上野国民学校)から約3粁離れた峠越えの谷間に建つ正念寺を宿舎にした。住職は今でいう民生委員に当たる人で、難しい学童疎開の受け入れを快く承諾した人格者だった。村の疎開の係と協力し、またお葬式や法事等の合間に、沖縄の学童への食料の提供を呼びかけたりしてくださったので、他の地域より子どもらに多く食べさすことができたと感謝に堪えなかった。
 宿舎には布団が山のように持ちこまれ、麦や配給米も届けられ、風呂浴槽も作られた。時には柿・いも・とうきび・栗などが届けられ草履の寄贈も受けたが、これらは皆婦人会のご尽力によるもので、そのご厚情は生涯忘れられない思い出となっている。

 辛い昼食時間
 生徒たちは、上野国民学校生として該当の学年に籍を入れ、地元の子どもたちと一緒に学習することになった。
 一番辛かったことは昼食時の弁当のことである。同席の地元の子のものは、白いご飯に山菜・ごぼう・たけの子・しいたけ・卵などのおかずが入っているのに、沖縄の子どもたちのものは麦飯におかずは決まって梅干か大根漬け。それに四粁近い峠越えの通学のために、ふわふわに入れた弁当は一方に片寄って、途中で半分食べた格好に見え、或る先生は、「沖縄の子の弁当は半分になっているが、途中で食べたんじゃないですか」と言っていた。その実情を知らない教師の言にいたく憤慨したのであった。
 昼食のとき、盗み見をしながら蓋で隠しながら食べなければならない卑屈感・劣等感、どんなに辛かっただろうか。宿舎に帰っても待っているのは毎日流動食の麦飯。それでも食欲は旺盛なだけに、おいしそうに食べてはいた。
 すべての学童が栄養不良になり、体力も日々に衰え、体育の時間に休む者も多くなり、伸び盛りの時期にその成長を十分に伸ばせなかったことは事実である。
 ある日、ある学童が受持ちの教師にひどく叱られているのを見て、泣きたいほど恥じ入ったことがある。その子は体育の時間に教室に残り、地元の子の弁当を食べて弁当箱を便所に投げ捨てたとのことだった。これは誰の責任だろうか。国策にそって疎開を余儀なくされた子どもらの、ひもじさに抗した姿だった。
 「欲しがりません勝つまでは」の標語を裏で行く食べ盛りの疎開学童の実態に、ただ泣くばかりでした。食べ盛りの子らが、麦飯の腹八分さえも与えられず、あのような粗食に甘んじて長時間親元を離れての生活、時には沖縄人と馬鹿にされ劣等視されたことを思うと、あの時の腸の千切れる思いが今でも蘇ってくる。

 悪性伝染病赤痢に二度も見舞われる
 栄養不良、体の衰弱、いつ沖縄に帰れるかも知れない不安の中に、遂に終戦を迎え、復員軍人が帰還し始めた。みやげに赤痢菌をばらまかれ、宿舎の隣の8歳の女の子が死んだ。会葬者が次々感染するという事態に発展したので、隔離所を設けるなどして村でも対策に大わらわであった。幸い学童にはひとりの病人も出ずに済んだが、周辺に10人の死者が出た。その中に、1歳になったばかりの私の幼子もいる。私の家族4人は、学童と離れて部落内に住んでいたため、感染したのである。

 二学童を大分県の再疎開地で失う
 「引き揚げていく朝鮮の人々の農耕地があるが、集団を離れた卒業生や一般疎開で来た父兄らで、一緒になって稲作をやったらどうか」とすすめる人がいて、大分県に再疎開した。
 先遣隊の人々によって稲も順調に伸び収穫が目前に来た。沖縄への帰還もうすうす耳にするようになった頃だったが、ひとりの子が、兄の就職地延岡に遊びに行き赤痢に罹った。上を下への大騒動になり、役場に連絡して対策を乞うた。村では山林の中に隔離所を設け、衛生課の職員を派遣して治療に当たらせたが、2人の学童は、目前にきた沖縄帰還を待たずに、短い一生を閉じてしまった。今なおその悲痛、悲嘆をひっさげて私は日々を送っている。お盆には絶やさずに二学童の霊前に合掌している。せめて私の幼子の死で、償うことができていたらと、遺族に心から詫びている。
 今、当時の学童たちは、孫もでき、経済的にも充実して楽しい一家を築いている。時々会合をもち、当時を語り合っている。
 寺が宿舎であった関係上、お坊さんが葬式や法事の帰りに供え物のお下がりにあずかったこと、お寺参りの檀家の人の供え物をもらったこと、初めての雪を見て、その雪明かりで夜が明けたと思い私を起し、皆で竹コップに雪を入れて食べた午前2時頃の喜び合った顔、運動会には、山と積まれた寄贈の弁当を腹十分に食べて楽しかったこと、雪路で、下駄の鼻緒を切らして人夫坂越えに苦労したこと、かるいを肩にかけ野菜を採りに行ったり、トウキビの色づいたご飯にありついたり、落穂拾い稲刈り作業で、腹一杯におにぎりを食べたこと、時には地元の級友の家に呼ばれたこと、ほじくって焼いた芋を小さい囲炉裏の側にうずくまって食べたこと、凍傷に罹ったあかぎれの手の痒さに息を吹きかけ堪える可憐な子等の姿……。集まれば話の種は切れずあの時この時の思いでは鮮明に蘇る。
 私には忘れられないことが幾つもあるが、その中の1つ。それは、ある日校長が、全校生徒に学力テストを実施したことである。沖縄の子がどの位の学力を持っているかを調べるために、密かに計画実行したとのことのようで、結果は沖縄の子が、1年、4年、6年で一位を占め、地元の子らを凌ぐ成績を挙げたので愉快であった。学校側もびっくりして、地元の子を励ます資料にしたであろう。
 私も高等2年(戦前小学校の最上級生)を担当して進学指導もし、教え子も多く、文通したり相互訪問したりで旧交を暖めており、子どもらも相互に往き来して、疎開時代の縁をますます固くしている。
 上原信先生は専攻科出で若手のキビキビした元気者、且つ美人だったので一躍西臼杵郡で有名になった。運動会には総指揮を取ったりして、沖縄女教師の意気を遺憾なく発揮した。
 長くて6ヶ月という約束は、敗戦となり帰れる日の予測もないまま、大分県へ再疎開。二度も伝染病に見舞われ、食料難と飢餓の中を逞しく生き抜いて来た疎開学童団にも、沖縄帰還の喜びの日がやってきた。
 沖縄帰還の日、夜10時、大分の葛城区長さんはじめ皆さんが、12月の夜空に竹の松明を赤々と燃やし、沖縄万歳の声援で送ってくださった。私たちは松明の爆ぜる音の中を、萬感胸に迫る思いを抱きながらも、佐世保へと勇躍出発したのである。
 あれから40年、国策に対し不平不満も述べたが、命を助けてもらった上野村の自然と人情に感謝し、上野で体験した幼い日の思い出を無にせず、戦時下の尊い体験を生かして活躍・発展している当時の学童の姿に接する最上の喜びを得て、感無量である。

(疎開先 宮崎県・大分県)住所豊見城村字饒波XX
  当時の勤務校 豊見城村第一国民学校
キーワード疎開体験談、学童疎開、対馬丸、潜水母艦「迅鯨」、宮崎県高千穂町(上野村)、上野国民学校、正念寺、赤痢、再疎開、大分県
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.936-940
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2沖縄師範学校龍潭同窓会 編/沖縄師範学校龍潭同窓会 編 1986『傷魂を刻む わが戦争体験記』龍潭同窓会
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
饒波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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