上田 大城 宏一(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文

ID1170991
作者大城 宏一
作者備考出身地「上田」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県北郷村)
資料名(別名)上田_大城 宏一_「学童疎開から帰ってみると…」_1_全文
キーワード疎開体験談、学童疎開、疎開船伏見丸、宮崎県東臼杵郡北郷村宇納間、北郷国民学校、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.928-932
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
上田
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私が学童疎開したのは昭和19年8月29日だったと思う。那覇港から船が出たと思うが、当時は那覇港など行ったことがなかったので、断言出来ない。その港から護衛艦の巡洋艦に守られながら宮崎向け出航した。当時は戦争中で、出港して一晩目どのあたりだったかよくわからないが、沖縄近海で停泊してから九州に行った。あの時分、いろんな情報が飛び交い、敵の潜水艦などがいて危険だ等の情報が流れていたので敵の情報網を撹乱させ、船の安全を確保するための措置だったと思う。
 見送りには両親が来ていた。実は弟も、私たちと一緒に行く予定だった。出航前夜、那覇の旅館で1泊したが、その旅館で、弟は下痢をしてしまい「このまま宮崎に行かせては大変だ、一応家に帰りなさい」ということで、両親と帰宅した。

 船はイギリスから購入したという貨物船で、「伏見丸」といい、一緒に行ったのは50名から60名程度だったと思う。
 引率の先生方、調理人の方々、私たちを世話して下さる人達、そして学童、これをひっくるめて50、60名だった。学童の中で、最下級生は〇〇〇君といって1年生で、最上級生は高等2年生だった。
 両親と別れ、沖縄を離れて行く時、自分の気持ちとしては、戦争というものがどんなものかも知らず、ただ「大きな船に乗って大和に行ける」ということで嬉しく、心が弾んでいた。船中で救命胴衣を渡されても、不安というものは湧かず、実感として「楽しい」という気持ちだった。みんな子供同志だから、船中では、はしゃぎ廻ったりして、それはもう楽しかった。

 着いたのは鹿児島だったと思う。そこの旅館で1泊して、トラックで宮崎まで行ったと思う。
 疎開したのは、宮崎県東臼杵郡北郷村宇納間という所だった。そこに、北郷国民学校があって、その学校に転入した。そこの校舎の一部を宿泊施設としてあてがわれた。
 北郷はまったくの山深い所で、周辺は高い山に囲まれた大変静かなたたずまいの山村だった。そこの産業は、田んぼも多かったし、しいたけ栽培、炭焼きなどがあった。その他、杉山があって、農林業などもやっていた。

 私たちが北郷に着いた時、地域の婦人会や団体、個人などから柿やボタ餅、丸い草葉で包んだ餅などの食糧が提供された。
 放課後、学校の近くに五十鈴川(いすずがわ)という川があって、魚つりをしたり、川遊びなどをよくやった。冬場になると外に出るのがおっくうになり、学校で「放課後、かならず勉強するように」という先生の指導もあって、よく勉強した。沖縄から持って行った衣類は、ほとんど半ズボン、半そでの上衣で、冬支度は不十分だった。靴下などもなく、冷たい廊下の行き来は裸足で、霜やけにかかり、手は凍って麻痺し、箸も握れないほどだった。凍った両手を口元に当て、暖かい息を吐きかけている姿があちこちに見られた。その頃から、沖縄の家族のことが頭に浮かび一刻も早く帰りたい、家族に会いたいと強く思うようになった。ある寒い日、授業中に家のことが思い出され、机に本を立て顔を隠し、シクシク泣き出した。ふと我にかえり、周囲を気にして再び姿勢を正したこともあった。そんな中で、最も印象に残っていることは、早朝「朝の耐寒訓練」と称して、小学校1年生から上級生まで裸になって運動場を駆け廻ったりなどを半時間から1時間ばかりさせられたことだ。そのような厳しい躾もあって、風邪をひく者も、登校拒否者もなく、冬の寒さにもたえることが出来た。

 雪もよく降った。向こうに行って間もない頃、真夜中に大雪が降ったことがあった。初めて見る雪だったので、熟睡しているところを誰かが「雪だ!」と大声で叫んだので、私たちは全員跳び起きた。運動場に出て思い思いに走り廻ったり、雪合戦をしたりで、本当に楽しい思いをした。雪の銀世界というのは実に素晴らしいものだった。その時の印象が未だに強く頭に焼きついている。 その頃から、日本は敗戦が色濃くなって来て食糧事情が悪化して来たが、北郷も行ってしばらくは充分とは言えないまでも、おばさん達による米とか野菜とか芋などの調達は容易だったと思う。次第次第に食糧の調達もとても困難になり、私たちの食事も大変粗悪になって来た。私たちが使ったお椀は竹製だったが、米粒少々、野菜、サツマ芋入りの水のような雑炊が七分程度入った一膳きりで、常にすきっ腹を抱えていた。
 私たちは、あまりのひもじさに、悪いこととは知りながら、民家の柿を失敬したり、農家の人たちが、種いも用として、穴の中に保管してあるさつま芋を取り出して、野ねずみのように生のまま噛ったりしたこともあった。

 厳しい無いないづくしの生活の中でも私たちの中から1人の病人も出ずみんな元気一ぱいだった。それも、引率責任者宇久里眞盛先生の厳しい指導と側面から私たちを支えて下さった料理作りの叔母さん達、さらに北郷村の篤志家の皆様方など多くの方々に支えられて、私たちは生き伸びることが出来た。特に日高由吉御夫妻には、家族の一員として同居させて貰ったことがあり、人間の情愛というものを教えられた。運動会で、私が走っている時、競技場内に飛び出て来られ「宏一頑張れ」と叫んだり、冬の寒い夜、僕を懐に抱いて寝かせて下さった。あのぬくもりは生涯忘れ得ない。肉親も及ばぬ愛を私に授けて下さった。苦しい生活の中で、日高さんのような暖かい心の持ち主にめぐり会えて、大変貴重な人生体験をさせてもらった。

 「沖縄が戦争に負けた」ということは、自分の姉の恩師だった、キミ先生という方がどのようにして来られたのか、北郷にお見えになり「渡嘉敷島は玉砕した」と最初に聞かされた。それから、沖縄も玉砕したと聞かされたが、ピンと来ず、どの程度の戦争だったのかはっきりとはわからなかった。
 宮崎にいる時から、沖縄戦のことは聞いていたが、家族の誰かは生きているだろうという気持ちだったので、ほとんどの人たちが家族との再会を夢見ていた。宮崎で生活したのは、およそ2ヵ年だった。北郷の習慣や田舎言葉もだいたい理解出来るようになっていた。

 懐かしの沖縄を船上から見た。港には、出迎えらしき人影はなく、私が下船して最初に出会ったのは黒人だった。今までに見たこともない真っ黒い人たちだった。沖縄出身で、港で働いている人たちもサングラスをかけているものだから色が黒くなって見えて、この人たちまでも黒人のように見えた。この人たちは、私たちに笑顔を見せ、歓迎の意を表しているような表情だったので、ほっとしたが、最初は不安だった。港からトラックに乗せられ、久場崎に連れて行かれた。そこで1泊して翌日、現在の座安小学校に移送させられた。私たちが座安校に来たことを知ったほとんどの学童達の家族が揃って出迎えにやって来て、喜びの再会をした。私は「自分の家族はどうしたのかな」となんとなく気がかりであった。私の場合は従弟にあたる〈新門小〉の○○○君が来ていた。

 ○○○君に「自分の家族はどうしたんだ」と聞いたところ「用事に行っていて、ここに来れなかった」と返答していた。それを聞いて「やっぱり元気でいてくれたのか」と思った。○○○君と二人、自分の家の前を通りながら見ると屋敷は見る影もなく、石垣は崩れ落ち、家は原型をとどめず、まったくの焼け野原となり、瓦礫の山と化していた。昔の面影を何一つ残さない屋敷の前を通って、○○○君に促されながら〈新門小〉に行った。そこで初めて家族全員がいなくなったということを聞かされた。その日は〈新門小〉の誰かの法事だったので、たくさんの親せきの人達が集まっていた。
 家族のことを話してくれたのは私の伯父に当たる、〈新徳新門小〉の大城〇〇〇さんだった。彼から父親や家族の死について聞かされたが、私たちの家族は南部の喜屋武に避難していたそうだ。その日は、とても暑い日で、壕の中は大変だと、父は1人で空き家に入り、昼食の最中にお椀を手にしたまま、敵の機銃掃射を受け、凶弾が心臓部を撃ち抜き、即死したそうだ。さらに、残りの家族は、近くの壕で避難中に艦砲射撃の直撃を受けて全員死亡したとのことだった。壕の中はめちゃくちゃだったそうである。

 この世に、1人生き残って、12名の肉親を一瞬にして失ってしまったという悲運は、言葉では表現出来ないことであの時の辛さはなんとも言えなかった。
 これも運命と思えばあきらめもつくが、たびたび、那覇に用事で出かけた時、自分の父に似ているような人を見かけると「あの人は自分の父ではないかな」と思ったことが何度もあった。顔が少し似ているとか、帽子が似ているとかで「自分の家族ではないか」と思ったりして、「家族は死んだんだ」という気持ちにはなれなかった。
 私の伯父が医者をやっていたので、その家で面倒を見てもらうことになり、高校も出してもらった。帰宅後、畑仕事や山羊の草刈などもよくやった。休日にはヒッチーバル(1日中の畑仕事)もやった。当時は、現在のような知識一辺倒じゃなく、実生活に基づいた生活をしていた。あの当時は、無いないづくしの生活だったから、物のありがたさが身にしみている。現在は、あまりにも豊富で、物のありがたさを知らない人たちが多いのは残念なことである。
 戦争はあってはならい。人間同志の殺し合いというのは何のプラスにもならない。

(1996年10月聞き取り)

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