上田 大城 勇(学童疎開 宮崎県北郷村)_1_全文
| ID | 1170981 |
|---|---|
| 作者 | 大城 勇 |
| 作者備考 | 出身地「上田」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県北郷村) |
| 資料名(別名) | 上田_大城 勇_「学童疎開を振り返って」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開、豊見城第二国民学校(座安小学校)、疎開船伏見丸、鹿児島→列車→宮崎県門川町→トラック→東臼杵郡北郷村宇納間、北郷国民学校、北郷方言、飢え、農家の手伝い、養子縁組の申し出、久場崎港→豊見城 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
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| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.924-928 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
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| 出典2リンク | |
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| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 上田 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 昭和19(1944)年8月末、私が通っていた豊見城第二国民学校(現・座安小学校)でも宮崎県に集団疎開することが決まった。参加したのは最終的に初等科1年から高等科2年生(現在の中学2年生)までの学童49人と引率教員1人、それに炊事などの世話人2人に、先生や世話人らの家族5人を加えた総勢57人であった。当時、私達の家族は両親に祖父母、そして姉と私の6人家族であったが、この学童疎開には姉と私のほか、世話人として母も参加、父と祖父母は沖縄に残った。 時は既に太平洋戦争が始まって3年が経過、これまでアジア各地で連戦連勝を重ねてきた日本だったが、次第にアメリカを中心とした連合国軍の巻き返しにあい、敗戦の様相が色濃くなった頃であった。 疎開は那覇港から出発することになっていたが、出発当日、参加予定の児童が何名かきていないということで急遽私たちは後回しにされてしまった。 あらためて後日出発することとなった私たち疎開団は、「伏見丸」という軍需物資を運ぶ輸送船に乗った。 洋上ではアメリカの潜水艦が出没しているとの噂を耳にする中、全部で24隻の船が船団を組んで九州に向かった。船足の早い駆逐艦2隻に守られながら私達疎開団は無事鹿児島港に着くことができた。 鹿児島に到着後は、列車で宮崎県の門川町へ移動、さらにそこで軍用トラックに乗り換え、山間の道を揺られること数時間、やっとたどり着いたところが目的地である東臼杵郡北郷村の宇納間(うなま)であった。ここは宮崎県北部のやや中央部に位置し、四方山々に囲まれた山村であった。 私たちの宿舎には北郷国民学校の校舎の一部が割り当てられた。それは木造平屋の2教室分で、壁を隔てて男子と女子との部屋に仕切られた。 沖縄から持ち込んだ荷物は少ないとはいえ、ひとつの教室に20数人が雑居生活するわけであるから不便この上ない。ちゃんとした洗面所もなければ風呂場もなく、宿舎のすぐ近くを流れる五十鈴川(いすずがわ)がその代用となった。 いよいよ学校生活がはじまり、私たち疎開学童もそれぞれの相当学年に編入され、北郷国民学校の生徒の一員となった。 いちばん最初に不便を感じたのはお互いに言葉が通じないことであった。当時、沖縄ではまだほとんどの家庭でもっぱら方言を使っていたし、標準語を聞く機会といえば授業の時に先生が話すときぐらいである。 私達は沖縄方言混じりの片言の標準語を使い、片や北郷の生徒たちは地元独特の方言で話しかけてくるものだから、最初の頃は意志の疎通がうまくいかずだいぶ困ったものである。しかし次第に順応し、私達が北郷訛りの言葉を話せるようになるにはそんなに時間を要しなかった。逆に終戦後、沖縄に帰郷したときなどしばらく北郷方言が抜けず、疎開しなかった級友などからは笑われるし、担任からは「日本語を使いなさい」とまで注意された後日談があったほどである。 親元を遠く離れ、寂しさに耐え切れぬときもあったが、なによりも辛かったのは食べることであった。一口にこの2年間は「飢え」との闘いであったと言っても過言ではない。 戦時体制下のもと食糧も配給制である。1日3度の食事はほとんど変わり映えしないものばかり。僅かな米粒の入った水のようなお粥と、自分の顔が映りそうな具のほとんど入っていないお汁がだいたいの献立だった。しかもそれが孟宗竹を一節ずつ輪切りにして作ったお椀に一杯だけである。子供達にしてみれば腹八分どころか半分にも足りない量であり、「欲しがりません 勝つまでは」の軍国教育を受けてはいても、食べ盛りであった当時の私たちにとっては大変辛いことであった。 ひもじさのあまり、いろいろと悪さをやらかして北郷の人達にもだいぶ迷惑をかけた。柿の実が熟れる頃、こっそり民家の庭に入り込んで無断でそれをもぎ取ったり、農家の人が冬場の食糧用として屋敷の一角に埋めてあったサツマイモを掘り返し、学校のゴミ焼き場で焼いて食べたり、無人の米つき水車小屋に忍び込み米を失敬したものの、炊き出す場所がなく仕方なく生のまま米を噛ったりもした。 さらには悪知恵をめぐらして放課後、地元の生徒を呼びつけては「サツマイモを明日持ってこい」あるいは「お前は握り飯を持ってこい」などと命令した。彼らは沖縄の人が皆空手をたしなんでいると思い込んでいて「沖縄げんこつ」と恐がっていたので都合がよかった。それをいいことに「持って来ないとやっつけるぞ」と拳を握りしめ脅すと大抵は無理を聞いてくれたのだった。 悪戯をして学校中を大騒ぎさせたこともあった。当時は授業の開始や終了の合図を釣り鐘を鳴らし知らせていた。それを当番の先生が一週間交替で担当していたのだった。私が4年生のときのことである。たまたまその週は私達の担任の先生が当番となっていた。女の先生で身体が弱く、よく授業中に具合が悪くなって右の脇腹を押さえながら廊下へ出て、しばらく休んだ後授業を再開するといったことも度々だった。ある4時限目の授業中のことだった。いつものように先生の発作が始まり廊下へ出た隙に疎開児童のひとりが黒板の横に掛けてあった時報用の時計の針を20分ほど早めたのであった。そうとも知らず発作が収まり教室に戻ってきた先生は時計を見るや、慌てて授業終了の時鐘を打ち鳴らしたのであった。もちろん職員室には別の親時計もあったので、その合図の鐘が誤報だということはすぐに分かった。悪戯をした生徒は職員室に呼ばれ、こっぴどく問い詰められたようであったが「4時限目さえ終われば昼食にありつける」とのひもじさ余っての仕業だったことが分かり、お仕置きを受けるどころか疎開児童に対する同情の念さえ集めることとなった。 私達にとっては非常に待ち遠しい季節もあった。それは米の収穫時期となる10月頃である。稲作農家がほとんどの北郷ではこの時期、稲の刈り入れのため猫の手も借りたくなる程忙しくなるため、私達のような疎開児童にも手伝いを依頼にくる農家も多かった。日曜日ともなると上級生らと一緒に5、6人で手伝いに出掛けたものだった。農家での仕事はけして楽ではなかったが作業後の食事が楽しみだった。農家の人達も私達がいつもひもじくしていることを知っていて、昼食時あるいは夕食時には採り立ての新米で炊いた「銀飯」やたくさんの御馳走でもてなしてくれた。日ごろなかなか口にすることのできない米のご飯、あまりの美味しさに腹いっぱい食べておかなければと、無理に詰め込んで腹をこわした生徒もいた。今思えば、仕事の出来る上級生ならともかく、足手まといにしかならない私達のような下級生も承知のうえで作業に呼んでくれ、手作りの御馳走などで温かく心遣いをして戴いた北郷の農家の方々に感謝の念で一杯である。 昭和20(1945)年8月、日本の無条件降伏により終戦を迎えた。 私達も約2カ年間の疎開生活を終え、親兄弟の待つ沖縄へいよいよ帰ることとなった。しかしその頃になっていろいろな風評が流れるようになった。「沖縄は激戦のため全滅。住民はほとんど戦死した」たとえ戻っても親兄弟が生き残っている者は少ないだろうというのだ。やがて子宝に恵まれない農家から沖縄の子を引き取りたいと養子縁組の申し出も出てきた。 その後私と母、姉の3人は、外地から復員し面会にきていた同じ部落出身の知人らとともに疎開団を離れ、大島町へと移動した。 そしていよいよ昭和21年夏、鹿児島港から沖縄への帰路についた。約2日掛かりの航海を経て着いたのは中城湾に面した久場崎港であった。上陸後、近くに設営された米軍の野戦用テントの中で一晩過ごし、翌日不安と期待を胸に米軍のトラックで豊見城村へと向かった。上田部落に到着すると、宮崎での風評とは異なり、多くの字民が出迎えてくれた。家族、親戚それに友人ら、見覚えのある懐かしい人々に囲まれ、それぞれに抱き合って2年ぶりの再会を喜び合った。しかし出迎えの家族の列には必ず誰かが欠けていた。 私の家族も沖縄に残った父や祖父母の姿はそこにはなかった。急いで母と一緒に自分の家に行ってみると、そこには跡形もなく焼け落ちた屋根瓦だけが瓦礫の山となっていた。 誰もいない荒れ果てた屋敷の片隅で母は1人うなだれ必死に涙をこらえていた。 思えば学童疎開で宮崎へ出発する前日、祖父が私を抱きながらこんこんと諭していたことを思い出した。「今度の戦争はどうなるか分からない。おじい達は名前の書いた札を手首に巻いておくから万一のときはそれを目当てに探してほしい。お前は長男だから後のことは頼むよ」祖父のこの言葉が結局私への遺言となった。日露戦争の体験者だった祖父だけに、あのとき既に覚悟を決めていたのだろうか。その後遺骨を捜し求め方々訪ね歩いた。聞くところによれば、父らは沖縄戦終了間近まで南部に避難していたようだが「どうせ死ぬなら自分の家で」とまず祖父が豊見城へ向かい、数日後にはその後を追って父らが向かったとのこと。家族3人の息絶えた最期の場所さえ今もって分からない。 私達学童疎開経験者も今では60代、二度と再びあの惨禍を繰り返すことのないよう忌まわしい戦争について語り継いでいかなければならない。そうすることが子や孫たち、さらにはこの大戦で犠牲になった多くの英霊に対する私達の責務であると考える。 (1999年6月寄稿) |
