座安 大城 美江(山原疎開 大宜味村喜如嘉)_1_全文

ID1170971
作者大城 美江
作者備考出身地「座安」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目山原疎開
資料名(別名)座安_大城 美江_「私の戦争体験談」_1_全文
キーワード疎開体験談、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開、大宜味村喜如嘉
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.923-924
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
座安
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 10.10空襲(十・十空襲)の前あたりまでは、兵役に行く場合は見送りや餞別会がとり行われた。初めのころは字のユサマに行って武運長久を祈願して皆で見送ってやった。ある時期までは、国防婦人会や青年会の代表で那覇まで行って見送りをしたこともあった。

 私は10.10空襲(十・十空襲)の時はタビオカ芋(木芋)のでん粉をしぼっている最中でした。アメリカ軍のB29が何機か来襲して来たが、友軍は日本の飛行機だと思って初めは驚かなかった。
 そのころは、字伊良波や、字座安の何ヵ所かの民家に日本軍が駐屯していたので、血相を変えた伝令が馬を飛ばして部落の駐屯軍に知らせに来た。
 空襲はたしか午前8時半か9時ごろだった。敵の飛行機は那覇か小禄飛行場あたりを攻撃していた。私たちはもの珍しさもあって攻撃の様子を眺めていた。今思うとぞっとするが・・・。私たち部落の人は、字座安の裏山(若知花原)に掘ってあった防空壕に隠れた。
 当時の日本軍の初年兵さんは大変かわいそうだった。食料が不足していたのか食べ物をもらいに来る初年兵もいた。

 10.10空襲(十・十空襲)後の翌年の2月中旬か末ごろ、私たちは大宜味村の喜如嘉に避難した。ちょうどその時、近くに駐屯していた石部隊が、トラックで山原まで壕に使用する材木を取に行くというので、私たちも名護まで便乗させてもらった。避難場所は各字、地域別に割り当てられていた。私たちには山の頂上の掘建小屋が割り当てられた。そこは飛行機からでもすぐ見えるところだった。田嘉里あたりには与根や名嘉地など村の人たちがいるようだった。
 私の家族は2手に分かれて避難した。私は母と弟と一緒に山原へ。座安の壕へ残ったのは父、祖母、妹の3名。その時は何処が安全なのか分からなかったのでそうしたと思う。

 山原での食生活は、初めのころはそれほど不自由しなかったが、アメリカ軍の上陸後は、戦が激しくなるにつれてずいぶん苦労した。当地に送った荷物は届かず、自分たちの持ってきた食料は長くは持たず、芋、カンダ葉、山菜とかいろいろ混ぜて食にした。ソテツの幹をけずって発酵させ清水につけ、また乾燥させて粉にして食べた。粉は真っ白だった。ソテツの実も食べた。アタビー(蛙)の肉も大変味クーターでおいしかった。
 私たちが山から下りたのは戦争も終わった旧の7月15日だった。アメリカ軍が山から下りるように呼び掛けていた。火をつけて燃やすとのことだった。

(1996年11月聞き取り)

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