宜保 金城 幸子(山原疎開 喜如嘉→浜比嘉島)_1_全文
| ID | 1170961 |
|---|---|
| 作者 | 金城 幸子 |
| 作者備考 | 出身地「宜保」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 山原疎開 |
| 資料名(別名) | 宜保_金城 幸子_「喜如嘉から浜比嘉島まで」_1_全文 |
| キーワード | 疎開体験談、学童疎開、山原疎開、大宜味村喜如嘉→東村有銘→船で平安座島→浜比嘉島→糸満→豊見城、瀬長亀次郎 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
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| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.918-923 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
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| 出典2リンク | |
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| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 宜保 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 最初は学童疎開が希望だった私 私は、豊見城第二国民学校の学童疎開の世話人として、家族で、本土へ疎開することを希望していた。学校での説明の中で、「航海中いざという場合は、全員救命具を身に着けて海の中へ飛び込む」ということを聞いた。それは大変だと、一応断って、その帰途、ウーチジモーから海を眺めると、その日の海は荒れていた。そんなところに子どもたちと一緒に飛び込むことはできないと、本土疎開を諦めて、山原疎開に切り換えた。 山原疎開は、村からの指導で区長から連絡があった。祖母は、「私は歩けないから、ここに残る」というので長男の〇〇〇に託して山原へ疎開することにした。 出発当日は、宜保から2家族一緒で、区長たちがモーグヮーで見送っていた。宜保からは、4回に分かれて山原へ出発したが、私たちは、〈前ヌ新屋敷小〉と一緒だった。2回目の出発だった。那覇駅まで、うちに分宿していた日本軍のトラックで送ってもらい、汽車で嘉手納まで行った。そこから徒歩で山田国民学校まで行き、一泊した。そこでは、婦人会のみなさんが、夕食の世話をして下さった。更に、翌日、出発の際は、にぎりめしまで準備して下さっていた。 幸いなことに、とぼとぼ歩いていると、山原方面行きの日本軍のトラックが来たので、名護まで便乗させてもらった。その頃は、疎開者が手をあげれば、空いたクルマは乗せてくれよった。一週間位でようやく大宜味に着いた。村の指示で、団体を組んで移動していたので、大宜味には、豊見城村からたくさんの人が行列を作って到着した。 ゴローヤーの一員となる 私たちは、喜如嘉のゴローヤーが割当てられた。金城宏吉先生や赤嶺成春さんたちは、先発隊として先に着いていた。出発前に送った荷物は、学校で受け取った。 ゴローヤーには、おじいさんとおばあさんがおられた。そこで私は、農業の手伝いをした。畑には、主にいもを作った。豚の飼育もした。うちでの経験を生かして積極的にやったので、ゴローヤーでは重宝がられた。また広い屋敷の一部を耕して畑にし、野菜を作って、両家でいただいた。また、屋敷の掃除から家事のほとんどをやった。ゴローヤーヌカマルーと言われていた。 飼育していた豚も順調に育ち、山の中の避難小屋に避難してから、その豚をつぶし、おじいさんが、うちの避難小屋まで肉を届けて下さっていた。 避難小屋は、私たちのものと、おじいさんの家族のもの(子や孫が南部から帰ってくるのを待っていた)を準備してあった。おじいさんの説明では、ここが第一次の避難小屋ということだった。さらに、いくさがはげしくなれば、もっと奥の避難小屋に避難することになっていて、私たちは、第二の避難小屋まで避難生活をした。とても親切にしてくれるゴローヤーのみなさんだった。 避難小屋に予期しない方が尋ねて来られた。夫(徳安)の謝花国民学校での同僚だった、新里全福先生だった。当時、三高女(沖縄県立第三高等女学校)に勤めておられたらしく、三高女生徒をたくさん連れて、山奥まで訪ねて来られた。びっくりした。新里先生は、疎開者受入名簿で、私たちが来村していることを知り、是非会いたいと訪ねて来られたのであった。 山を越え谷を越え東へ 山の中で、島尻へ帰れるという情報が流れたので、宜保から疎開して来たみなさんの所へ行ったら、やっぱり帰れるようになったらしいということだった。それで私は、末の子を背負い、小さい子たちの手を引いて、いくつかの山を越えて東村の有銘へ渡り、そこから次の部落へ行った。そこに青年学校があって、そこでしばらく暮らした。ちょうどそこへ〈新野原小〉の奥さんがみえて、〈西仲元〉の家族(新野原小と西仲元とは親戚関係)を奥さんの出身地である部落へ連れて行った。(奥さんは東村の出身)私たちはとてもうらやましかった。 さらに離島へ避難する それからしばらくして、敵が来るよということで、海岸のアダン林の中に避難した。そんな時、平安座の人が船で離島へ避難させるということを知り、持っていた大事な着物を、船主のアカイユースーという人にあげて、船賃代わりにして、離島へ連れて行ってもらうことにした。しかし、平安座へ行くかと思った船は、4家族17人を乗せて、敵がいるというところへ向かっているというではないか。そこの住民も平安座へ避難しているということだったのに。そこで船を漕いでいる青年に懇願して、平安座に着けてもらって上陸した。船主のアカイユースーは激怒していた。 しかし、翌日は予定の所(平敷屋とか)へ連れて行くという。これは大変だと思った。ちょうどそこに知人がいて、事情を話したら、「絶対向こうへは行くな、向こうは敵がいるから、浜比嘉島へ行きなさい」ということだった。実は、平安座の島は、避難民でいっぱいでこれ以上受け入れるなという達しがあったらしい。そこで、我那覇のメーウンジの家族と相談して、浜比嘉へ行くことに決めた。そして夕方、私たちを平敷屋へ渡すために来たのは漕ぎ手の青年たちだけで、アカイユースーは来なかったので、ちょうどよいと思い、青年たちへ、浜比嘉へ渡してくれと頼んだ。浜比嘉と平安座は、近くの離島で互いに行き交い、特に浜比嘉ではミヤラビたちと遊べると青年たちは喜んでいた。 浜比嘉島へ上陸する 暗やみの中、船が浜比嘉に近づくと、銃声が聞こえた。米軍は、日本軍の襲撃と思ったのか、威嚇だったのか、恐ろしかった。その音に子どもたちが泣きわめいた。それを聞いた島の人たちは、自分の家族が山原から帰ってくるのかと思い、米軍へ、射撃を止めるようお願いして、射撃は中断した。そして浜に着いて上陸した。とたんに米軍MPたちが、船をひっくり返しているのを見て、自分たちはどうなるかと思ったが、助かることを知った。しかし船こぎ青年たちは、体罰を受けていた。それから避難民たちは、みんな島の集会所に収容された。島に上陸するまでは、米軍の射撃で殺されるのではないかと思っていた。山原にいる間、鉄砲の音なんて聞いたこともなかった。 島で日本の敗戦を知る 集会所から、私たち4家族は、学校の小使室に移された。そんなある日、そこの校長が、徳明先生と私の夫(徳安)を知っておられるということで、いろいろ親しくお話しできた。そこで日本の敗戦を知った。 その後、学校の小使室は、米軍MPの宿舎になるということで、4家族は分散して、地域の家庭の世話になった。うちは、チニンヤーというところの裏座に世話になった。偶然にもチニンヤーの知念さんは、溝原(字饒波)の知念さんの一門だということだった。 浜比嘉でしばらくしたある日、糸満漁夫の家族に、糸満へ帰れるという連絡があったことを知った。 一方私は、豊見城村役所宛に「浜比嘉島に、我那覇のメーウンジと私たちと、2家族がいる」ことを、手紙で知らせた。それを、金城徳明先生が受け取って、メーウンジのオトウは、すぐ迎えに来てくれたが、平安座島には家族はいない。帰りがけの港で、浜比嘉でメーウンジが世話になっている家の隣のお姉さんと会い、そのお姉さんと一緒にメーウンジのオトウの船で浜比嘉島に渡り、家族のもとへ案内してもらったようだ。久しぶりに元気で再会したメーウンジの家族は、帰郷することになったが、私たちの家族までは、船に乗れないということで、「後日迎えに来るから」と言って帰ってしまった。その後はチニンヤーの農業や家事の手伝いをしながら、迎えに来るのを心待ちに、毎日港に出ていた。早く、〇〇〇の元気な姿を見たい。 それを見たチニンヤーのおじいさんは、「えー、カマルー、よそのオトウが迎えに来る筈がないよ、あなたのオトウが帰って来たら迎えに来るから、それまでうちで、農業でもして待っていなさい」と言われて、そういえば10日待っても来ないもんね。「メーウンジは、私が手紙を出したおかげで帰郷できたが、私はさびしくて、毎日港へ行くのだよ」と話した。それからキーンムフヤーや、キーンムクジ作りなどをしてチニンヤーの手伝いを続けた。 糸満へ そうこうしているうちに、糸満オカーが来て、「えー、カマルー、うちは明日糸満に帰ることになったが、あなたたちはどうするか」と訪ねた。「わざわざ私たちを連れていく人はいないから、一緒に行きますよ」と、すぐ荷造りを始めた。書記の〇〇〇さんが、うちの荷物を全部荷造りして下さった。大変助かった。 さて、糸満の人と、一緒に浜比嘉を出て、着いた所は屋慶名。屋慶名に2、3日いて、トラックで糸満へ。糸満では、イシアナーの前のテントに入った。それからすぐ私は役所へ、「浜比嘉島から来て、早く豊見城へ帰りたい」と訴えに行ったら、めずらしいことに、瀬長亀次郎さんがおられた。「では、ぼくが車を出させるから、すぐ豊見城に帰りなさい」ということで、その日に豊見城へ帰れることになった。 嬉しさのあまり、どきどきして乗ったトラックに「オカーヤアラニ」と〇〇〇が乗り込んできた。長男の〇〇〇だ、元気だ、再会した。夢みたいだった。〇〇〇は、糸満高校に通学していた。オバーの面倒をみせるために、宜保に残した〇〇〇だ。元気だった。重い重い肩の荷がおりたようだった。ほんとうにほっとした。 あれから1年 山原に疎開して、山の中で4人の子どもたちを育てる心労、体力もだんだん衰え、浜比嘉に渡った当時は、自分は死ぬのではないかと思う位、栄養失調で衰弱しきっていた。しかし、浜比嘉のみなさんの、温かい心づかい、援助と配給等で体も回復し、地域のみなさんと共同作業へ出られるようになった。浜比嘉のみなさんは、ほんとうに命の恩人である。 そして、あの苦しい生活を切り抜けた気力、まわりの方々のおかげで、今は、病気一つない大元気な体で暮らしている。思えば、山原へ疎開して、1年近くなってからふるさと豊見城の土地を踏むことになったわけだ。 宜保に落ち着いてから、浜比嘉から、私を訪ねて来た人がおられたらしい。向こうで呼ばれていた名前、「チニンヤーヌマカルーは知らんかね、骨とカーの幸子さんを知らんかね」と訪ねて来たらしく、宜保の人は、「そういう人は知らん」ということで、会わずに帰ってしまったということだった。むこうでは、金城幸子としては呼ばれていなかったし、それに、この時は栄養たっぷりの体格をしているから、誰も気づかなかったわけだ。また、浜比嘉島に再疎開したことを知っている人はいなかった。後日それを聞いて、「ワンドゥヤンデー」と言ったら「イッペーヨーガラー幸子さんで、骨とカーヌ死ニギサーチュドゥヤタンドー」と言っていたよということだった。 落ち着いてから、お礼にと二度浜比嘉を訪ねたが、チニンヤーのおじいさんたちは、那覇へ引っ越したということだったが、その後の消息がわからず心残りである。 (1999年聞き取り) |
