豊見城 宜保 光信(学童疎開)_1_全文

ID1170941
作者宜保 光信
作者備考出身地「豊見城」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開
資料名(別名)豊見城_宜保 光信_「昭和十九年学童疎開の記録」_1_全文
キーワード疎開体験談、供出、学童疎開、豊見城第一国民学校(長嶺小学校、一豊)、食事内容、ミカゲ丸、軽便鉄道、鹿児島県→宮崎県延岡駅→日之影線日之影駅→トラック2台→上野村、上野村学校宿泊組・正念寺宿泊組、10.10空襲(十・十空襲)、ケンカ、終戦の日、玉音放送、転籍(熊本県上益城郡三船町大字木倉北村)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.905-914
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
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出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
豊見城
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私が豊見城第一国民学校(現在の長嶺小学校)3年生のときのことである。夏休み前のある日、学童疎開の話を母から聞かされた。戦争で沖縄も危険だというので子供達を疎開させたい人は申し出るようにとのこと。それを聞いて、私はすぐ母に疎開に賛成するようせがんだ。当時、私達の家族は父がフィリピンに出ていて、沖縄に残っていたのは母と姉妹3名、それに私の合計5名であった。

 この頃、田舎の生活は非常に貧しく、毎日の主食は芋中心で、白いご飯は月に2回程しか食べられなかった。たまに病気やかぜ模様の時だけお粥に梅干し、そして鰹節のスープが献立にあがるぐらいであり、そんな時、私はいつも本土での生活を想像し憧れを抱いた。「本土の人たちは毎日白いご飯を食べ、瓦葺きの家に住んでいるんだろうな」と思いこんでいたのだ。だから本土への学童疎開と聞くとすぐにでも行きたいという気持ちになったのである。手続きには保護者の印鑑が必要とのこと、せかすように母に印鑑を押すよう頼んだ。母はようやくという感じで私の要求に応じてくれた。母が同意してくれたのは、長男と長女を疎開させておけば万一沖縄が戦場になっても安心だと思ったからであった。結局、母は4名兄弟のなかから、私と姉の2人の疎開参加を決め申し込みの手続きをしてくれた。しかし申し込み後も、母はいろいろと心配していた。しばらくは準備品を揃える忙しい毎日が続いた。芋を炊いて乾燥させ甘いお菓子を作ったり、衣服の準備などであった。

 いよいよ出発の日がやって来た。出発前に母が、青いバナナを古着に巻いて着物と一緒に荷物として持たせてくれた。その日、私達はまず学校に集まって集団で出発し、歩いて那覇旭橋の近くの旅館に到着した。(日時は記憶してない)。その旅館で何日か、船の入港を待って待機していた。その間、「いよいよ船で内地にいけるんだ」と毎日うきうきしていた。やがて船が着き、私達は桟橋に行き乗船したが、しばらくしてから船室に空室がないとのことで下船させられた。そのときの船はミカゲ丸という名の船であった。その後、私達は一旦自宅へ戻り、次の出航の連絡が来るまで4、5日ぐらい自宅で待機した。
 ふたたび連絡が入り、私達は出発した。昭和19年9月5日のことである。このときは一旦、三重城の船着場から小型舟艇に乗船し、そこから沖合に停泊している疎開船へと乗り移った。

 いよいよ肉親との別れの時である。見送りの上級生らは悲しそうにハンカチを手にし、肉親らも大きく手を振って見送ってくれた。しかし、私はあまり悲しい気持ちにはなれず、むしろ大きな船でいよいよ本土へ行けるんだという思いでうきうきし、母たちの気持ちを知る由もなかった。
 私達を乗せた舟艇は三重城の船着場を出て波しぶきをかぶりながら沖へ沖へと向かった。那覇港沖には船が数隻停泊していた。そのうちの、一隻の軍艦の側に到着した。その軍艦の甲板からはハシゴが下ろされ、その上では水兵らが私達の到着を待っていた。私達の乗った舟艇がハシゴの横に着くとロープが渡され、さらに水兵たちが手を伸ばして私達をハシゴに渡してくれた。ハシゴは非常に恐かった。船のデッキにあがると、そこにはさらに白い上着に白線の入った黒い帽子の水兵が、敬礼をして迎えてくれた。私も思わずお辞儀をした。
 乗船後デッキに集まって注意事項を聞き、私達は甲板の屋根の下通りに案内された。船べりには安全の為にチェーンの索が張りめぐらせてあった。私は、沖待ちしていた船のなかで一番大きな軍艦に乗っているんだといううきうきした気持ちだけが先行し、母らが見送りにきていたことさえすっかり忘れてしまっていた。
 私達がいた廊下には強い風が吹き出る船の換気扇ブローワが近くにあって、船独特の強いペンキの臭いがまず鼻をついた。しばらくして、係から浮き袋と命綱が配られ、いくつかの注意事項があった。それは船からバナナの皮やサトウキビのかすなどごみを海に捨てないようにとの注意だった。はじめて船から眺める那覇港、乗船してから既に何時間か経過したが船はまだ碇を下ろしたままだった。

 太陽はすでに西に傾き、空は夕陽に染まってきたが、船はなかなか出航しなかった。私達はそのデッキ下の廊下でそのまま休息をとるように言われ、私はいつのまにか深い眠りに入った。翌日、目を覚ますと船はすごいエンジン音と振動で揺れている。デッキに出るため扉を開けると強い海風が吹き込んできた。船はすでに沖縄を離れすごい早さで波を切り進んでいた。後ろ側のデッキにまわりスクリューの押し出す白い泡を見ていると吸い込まれそうになった。白い泡が曲がりくねって果てしなく続いていた。曲がりくねって前進する理由は敵の魚雷攻撃を避けるためだったと後日聞かされた。水平線に目をやると別の船も2隻確認できた。駆逐艦と、もう一隻は私達が乗っていた船と同型の潜水母艦だという。この駆逐艦は我々の前を走ったり後ろに回ったりして、船団の護衛にあたっているとのことだった。しばらくするとこれらの2隻とも近くに見えてきた。また日本の戦闘機も私達の近くの上空を飛んでいた。その日私は生まれてはじめての乗船体験だったので気持ちが落ち着かず、船内を行ったり来たりの1日であった。
 印象に残っているのは甲板から波間を見つめていたとき、トビウオを見つけたときのことだった。誰かが「トビウオだ」と叫ぶと同時に船べりから歓声があがった。乗船後の食事についてはあまり記憶に残っていないが確か船内で飯合を持って並んだ記憶がある。固い乾パンもいただいた。デッキのそばには四角い救命いかだがたくさん並び、私たちはずっと命綱を保持していた。私達は何事も気にすることなく、その日の夜もぐっすり眠った。次の日、目を覚ますと私達の乗った軍艦は鹿児島湾内に到着したと知らされた。しばらくすると桜島が見え、私達を乗せた軍艦は午前9時頃、無事鹿児島埠頭に接岸した。

 鹿児島に上陸した私達は、そのまま宿泊する旅館まで歩いて移動した。旅館に着くとまず水をもらった。それがとても甘かったのでたくさん飲んだ。この旅館で何日間か宿泊したが、宮崎行きの汽車を待っていることは何となく知っていた。
 いよいよ旅館を発ち駅に着く。汽車に乗るまで気持ちは落ち着かずワクワクしていた。沖縄で軽便鉄道に4回ほど乗ったことはあったが、大きな汽車に乗るのは初めてだったからだ。出発の汽笛が鳴り、列車はいきなりガチャンという音とともに発進した。しばらく私は窓越しから車外の風景に見とれていた。するとまた汽笛が鳴り係の人から窓を閉めるよう注意される。その後汽車はすぐにトンネルに入った。これも初めての体験だった。私は何カ所のトンネルを通過するのか数える事にした。トンネルの中を覗こうと誰かが窓を開けたとたん、煤煙が列車内に入り皆んなの顔がまっ黒になった。それ以後汽笛が聞こえるとすぐに窓を閉めるようにした。私はずっとトンネルの数を数えていた。私達の乗った汽車は47カ所のトンネルを通過した後、昼頃に延岡駅に到着した。そこでは宮崎の婦人会の皆様が暖かく私達を迎えてくれた。そして大きな銀飯のおにぎりもごちそうになった。
 私達は次に日之影線の汽車に乗り換え、約半時間で日之影駅に到着、そこで迎えに来たトラック2台に分乗し、そこを出発した。岩戸村へ疎開する組とはここで別れた。 道は所々たいへん狭く、また道ばたに生えた柿の木にはトラック台から手が届くほど実が垂れ下がっていた。このほかあちらこちらの畑の土手などにも大きな柿の木があり、初めて見る黄色い柿の実や、山肌を埋め尽くす大きな竹林に目を奪われた。長時間トラックにゆられ私達はやっと目的地の上野村に到着した。吹奏楽団を先頭に上野村の皆さんが私達を迎えてくれた。トラックから降りた私達は学校近くの農民会館に案内され、そこで地元の婦人会の皆さんが昼食を準備して私達を待っていてくれた。竹の皮で包まれた大きなおにぎりを腹いっぱいそこでいただいた。

 食事のあと、しばらく自由時間があり、皆んなで学校下の集落内を見学に行った。そのとき私は、途中の池で大きな鯉を観察するのに夢中になってしまい、皆とはぐれてしまった。気がつくと誰の姿も見あたらない。必死に辺りを探したが仲間はいなかった。一瞬困惑したが、私はふと、自分たちの荷物を乗せた馬車の存在を思い出し、その後を追っていけば皆んなに合流できると考え、馬車の行方をさがすことにした。その馬車の後ろからはほかの馬車がひとつも通行していないことを念頭に置いてさがすことにした。途中、道沿いの畑で農作業をしている大人の皆さんへ「こんにちは」という挨拶も忘れなかった。沖縄を離れる前、先生から疎開先での挨拶はきちんと行うようにといつも教えられていたからだ。私が挨拶すると畑仕事をしている方々が腰を起こして珍しそうに返事の挨拶をしてくれた。
 当時の馬車の車輪は幅が10センチぐらいの鉄製でできていて、砂利道であれば馬車が通った跡を知ることができる。しばらく行くと交差点に出た。そこには2つの車輪の跡が交差して残っていた。私は、馬車はどこへ進んだのかその交差した所を注意深く観察し、上のほうから押しつぶした車輪の進んだ方向を追って行くことにした。すると今度は三叉路にさしかかった。ここでも同じ方法でその跡をたどった。いつしか道は山手のほうまできていた。道は暗く寂しい竹薮に入ったので、私はその時、その道をそのまま進もうか、あるいは来た道を戻ろうか迷ったがそのまま進むことにした。するとあるお寺の近くにたどり着き、そこで門のそばに停車していたあの馬車をとうとう見つけることができた。ちょうど私達の荷物を降ろしている所であった。その時の気持ちはなんとも言えず、私はほっとひと安心した。まずは自分の荷物があるかを確かめた。間違いなくあった。きっと皆んなもここに集合するのに違いない。「自分が一番乗りだ」今までの疲れもすぐに吹っ飛び嬉しかった。そしてほかの仲間達に威張って見せてやろうと思った。約30分間ぐらい休んでいると仲間達が、がやがや話しながら歩いて来るのが見えた。私が先に到着していることはきっと誰も知らない。やがて皆んながやってきて既に到着している私をみてびっくりしていた。仲間達は、私1人でここまでたどり着いたとは誰も信じてくれず、馬車と一緒にやって来たとしか思っていなかった。

 私達の第一国民学校からは約180名の児童、関係者が宮崎疎開に参加した。そのうち90名が岩戸村へ疎開し残り90名は上野村に疎開した。上野村においてもさらに学校宿泊組と正念寺宿泊組の2カ所に組み分けされ、私は正念寺組であった。
 正念寺ではお寺の皆様が私達を出迎えてくれた。私達はさっそく自分の荷物を選び出してひと安心するとそれぞれ荷物を解きはじめた。私はすぐにバナナをくるんだ包みを確認したが開けてみてビックリ、バナナは全部腐れそれを包んでいた着物も汚れていた。とても残念だった。
 私達はお寺のなかを案内された。そのときはじめて仏像を見た。最初、恐い感じがしたが皆んなと一緒だったのであとになると恐さを感じなくなった。到着したその日の夕食は、確かお坊様の自宅でご馳走になったと記憶している。そのとき食べたカボチャの味は今でも忘れられない。翌朝からは、毎日お寺の前庭で、起床後のラジオ体操と朝の清掃をするのが日課となった。
 沖縄を出発したのが昭和19年9月5日で、鹿児島到着が9月7日、そして4、5日してから正念寺に落ち着いたとそれぞれの日付けを記憶している。

 私達、学童疎開団をお世話してくださった先生方は、正念寺組の引率が大小堀松三先生で、世話係は長嶺八重おばさんと比嘉ヒサ子おばさんであった。また学校組は引率が宜保信子先生、世話係が瀬長マサ子おばさんと具志静子おばさんであった。私達が宿泊する正念寺から学校までの登下校は近道を通って約30分の道のりだった。

 上野村での学校生活にも慣れてきたこの年の10月10日は運動会の日であった。皆んなわくわくしてプログラムが始まるのを待っていた時、突然サイレンがけたたましく鳴り響いた。そして南西諸島沖縄が空襲されているという放送が何度も繰り返され、結局その日の運動会は中止となった。上級生の幾人かは故郷の親兄弟を案じて心配のあまり目を赤くしていた。運動会は後日行われた。

 それから1カ月後、秋も次第に深まり上野の山々は紅葉へと変わり朝夕もめっきり寒くなった。その頃から私は、沖縄で疎開出発前、勝手に想像していた本土の様子がほとんど異なっていたことを痛感していた。本土は全部街だと思っていたのも全然違うし、そこにある家々も田舎の篤農家ばかりで家の作りも沖縄とはだいぶ異なっていた。どこの村にも水路が通り、水車小屋も所々で見ることができた。
 私達は、学校帰りに栗の木を見つけてはよくその実を拾って生で口にしたり、焼いて食べたりした。また私達下級生グループは、こっそり桑畑に出かけ、紫に熟した小指ほどの太さの桑の実を腹いっぱい食べたこともよくあった。夢中になって食べながら移動していると、すぐ近くで桑の葉を刈り取り中の畑の主人とばったり出くわし、びっくりして逃げた時もあった。桑の実を食べている時は、皆んなおしゃべりはほとんどなく黙々としたものだった。それは口の中が桑の実で満杯で食べるのに夢中だったということと、自分が見つけた良い場所を他の友達に知られたくないからという理由だった。お腹いっぱいに食べたあとは、残った桑の実をポケットにしのばせた。帰路の途中、紫色に染まった顔と手のひらに気づいて、お互いをけなしあった楽しい思い出もある。

 そんな日もつかの間、12月を迎え冬も深くなるにつれ寒さも厳しくなり、私は学校を時々仮病で休むようになった。そんなある時、八重おばさんが特別にナスビを焼いてくれ、ご馳走になったことが今でも記憶にのこっている。それからお寺のそばの銀杏の木の実を拾って焼いて食べた味もまだ覚えている。仮病を使って学校を休む私を先生方が心配してくださり、相談の結果、私と姉を学校組の2人と交代することにし、私達は学校組へ組替えとなった。学校組の宿舎は運動場のすぐそば、兎小屋の近くに建てられていた。学校組では約40名の共同生活を通じ、楽しかった事、苦しかった事が今となっては楽しい思い出となっている。

 上野村に疎開して3カ月も過ぎた頃からクラスの一部の同級生とだんだん仲が悪くなり、時々喧嘩もするようになった。そんなとき沖縄の学童達は決まってある「脅し」をかけていた。それは空手である。拳をふりあげて空手ができるぞ、かかって来いと脅すとだいたい相手は逃げてしまった。また当時、学校の生徒全員に個人用の竹の棒(75センチ位の長さで「修練棒」と呼んでいた)があって、それを振りかざして喧嘩する生徒もいた。それでもクラスの皆さんは私達をよく世話してくれた。

 ある寒い夜の翌日、朝起きてみると水溜りだったところが全部氷に変わっていたので皆んなびっくりした。さっそく洗面器をとり出して、その氷を集めガリガリと口にした。初めて見る氷が大変珍しいかったのだ。残りの氷を昼まで置いておくとその氷は溶けて無くなっているし、また水溜りに張っていた氷も元の水溜りに変わっている。はじめて見るそれらの現象に驚きとびっくりの連続だった。
 私が体験したなかで一番寒かった日は、当番で学級の廊下掃除をするためバケツにお湯を入れ、運んで行く途中にこぼれたお湯がしばらくすると凍っていたという日であった。その日の気温はマイナス4度であった。そんな寒い日には皆んな廊下に出て声を出してお互い身体をぶつけ合ってはしゃいものだ。1人増え2人増えそれが10名ぐらいの人数になると体もだんだん暖かくなった。

 疎開先での団体生活は常に規律が重んじられ、まず起床、床取り、洗面、朝食、掃除、さらに薪取り、風呂炊き当番、消灯時間等があって引率の先生方及び世話係の方々が大変苦労なさったと、のちに年頃になってから感じた。私は当時1番下級生でほかの皆さんに大変世話になったと思う。
 私が一番辛かったのは、寒い朝、洗面をしに行くことであった。氷点下の朝は水道の水も凍りつき、それにタンクに貯めた水は柄杓がともに凍ってくっつき、取れない状態になることもあった。そんな寒い日などは濡れたタオルを外に干しておくとカチカチに硬くなる。また寒い朝、朝礼時間に運動場へ集合する時なども辛かった。履き物が足りず何回も凍える思いをした。履き物については先輩たちからワラジの作り方を教えてもらい、それ以降は自分で履き物を作れるようになった。また衣服についても沖縄から持参したほとんどが半ズボンや上着など夏物が多く冬着を持ってきた学童は少なかった。しかし、私と幾人かはマントゥー(外套)を所持していたので大変助かった。
 私は寒い日には常にマントゥーを上から着て学校に行き、朝礼の時などは仮病をつかって出席しないことも多かった。何故ならその時間に自分の持ってきた弁当が欲しかったからだ。マントゥーを頭からすっぽりかぶり、机の上にうつ伏せになって病気のふりをして自分の弁当を素早く5分以内に食べていた。自分の弁当だったので悪いとは思わなかった。それほどいつもひもじい思いをしていた。他にも同じようにマントゥーを被ってなにやらもぞもぞしている同級生もいた。彼も私と同じように自分の弁当を食べていたと思う。ほかの皆んなが朝礼から帰ってくるまでには私達は食べ終わり、顔を少し出してお互い知らん顔、1時間目の授業が始まる頃からは病気も治ったふりをした。そして4時間目までには、お昼の弁当時間と午後について自分なりの計画を練るのであった。私はいつもそんな日には、午後から学校をさぼって山学校を何回か実行した。裏の山々に行き、栗の実拾いや、山芋を見つけては生でよく食べていた。山の所々に目立つように赤い渋柿の実がなっているが、そのほとんどは木の枝先に実がついているため、それをもぎとるのはとても難しかった。ほかにも、つるに小さな実がつく山芋の実やタケノコ、やまねぎ(モオービル)などいろいろな野性植物を食べた。熟して落ちた渋柿などはまず虫が付いていないかよく見て、手でふいてから「ポロッ」と口の中に吸いこんで食べた。とても甘かった。そうして学校の授業が終わる頃を見計らって寮に帰るようにしたが、誰にも気付かれずに済んだこともあった。

 団体生活の1日で私達が一番楽しく待ち遠しかった時間は食事の時であった。しかし、当時は戦時中で食糧も乏しく先生方、世話係の皆さん方の御苦労は大変なことだったと思う。さらに上野村福祉係の遠藤様、正念寺の御家族、多くの上野村の村民の方々から多大なご援助を賜った。食事の献立も、月日がたつにつれ薩摩芋(サツマイモ)の回数が多くなった。食事の時は、長いテーブルを2列に並べ、その上に薩摩芋3個ずつが並べられ、すべての頭数が準備されるまで待っていた。全員分の配膳が終わるまで私達はその横で並べられた芋の大きさを見比べていた。あれと、あそこ、そして隅っこの芋が大きいなどと、めぼしい場所に目を付け、席に着く準備をしていると上級生が先に陣取りしてしまうこともしばしばだった。
 また風呂炊きなども当番制であった。風呂炊きはまず釜の中に小さな薪を最初に入れ、火を付けて燃え出してから次に大きな薪を上に乗せていくと、よく燃えるようになる。私が当番にあたったある日のこと、釜の中が順調に燃え出すと同時に上級生らがやって来て、火の中に薩摩芋を2、3個入れはじめ、知らないふりをして焼き芋をしてくれと頼まれた。しかしそのため釜の中の火力が弱くなり、たくさん煙が出て火を起こすのに四苦八苦したことを覚えている。なかには一刻も早く食べたいため、まだ半焼けの芋を慌てて取り出していく先輩もいた。そのとき、いつも皆んなこの芋をどこから持って来たのか不思議であった。

 ある寒い朝、朝礼にわらじを覆いて出たときのこと、あまりの寒さに足の指が痛くて大変だったことがあった。そのときは、はじめは痛みがあるものの、だんだん感覚が無くなり、朝礼後、走って寮に戻りこたつの炭の上に足を置いても7秒ぐらいは全然感覚がないというものだった。炭が消えてさらに数秒後には今度は痛みだし大変だった。まるで火傷をしたかのような痛さであった。

 夜寝る時は、男子と女子に分かれて2列に頭を向き合わせてねた。沖縄から持って来た寝具は布団と毛布であった。私は寒い夜は大きな毛布を2つに折り、くるくる巻いて寝ていた。布団は他の者が使っていて使えなかった。寒い夜に一番辛かったのは夜中に起きてトイレに行く時であった。学校組宿舎のトイレは別の棟にあり、一旦外に出なくては行けなかった。トイレから帰ってくる頃には自分が寝ていた場所は狭くなり、その中に割り込むと隣の者が悲鳴をあげる。外に出て冷たくなった体で潜り込むからだ。

 私が仮病で学校を休んでいたある日、寮に3名の先輩が火鉢を囲んで何か焼いて食べていた。私はそれまで風邪だといって寝ていたが、そこに行くと何かありつけると思い、先輩らが囲む火鉢の横に温まりに行った。「仮病だったんだな」と先輩方にひやかされ、さらに先輩らがこう言った。「今、火鉢で芋を焼いて食べていたが、まだ残っているので、君が皆んなの前で歌を歌ったらその芋をあげよう」私は恥ずかしいながらも芋が欲しい一心で歌った。そして歌い終わったあと、芋を受け取ったが、それは芋ではなく黒く焼けた木の根っこだったのある。がっかりであった。
 火鉢を囲んで一番楽しかったのは、山で拾ってきた栗の実や銀杏の実、そして小さな餅などを焼いて食べる時であった。栗の実や銀杏の実を焼く時には、さやが膨らんで割れる時に「パチッ」という音がし、熱い灰をはねるので注意して焼いた。焼き芋をする時などは大きな芋を入れると火が消えたりするのでうまく焼けなかった。まず皮のまわりの炊けた所だけ最初に食べて、中の芯の部分はほとんど焼けていないので二度焼きするのが普通だった。だから風呂場の釜たきなどはいつも煙で悩まされていた。

 上野村にきてから6カ月が過ぎた4、5月頃、友達に誘われ農民堂の倉庫の床下に忍び込んで切り干しを食べに2度行ったことがあった。芋の切り干しは薬を入れていたカマスに入れられていたため、カマスによって微妙に味も違っていた。そのためおいしいカマスはよく人がとるのか、緩みがひどかった。それらの切り干しは戦争のために供出されたものだったとあとで知らされた。

 戦争中、上野村でも何度か空襲警報があった。その時は上空から敵の飛行機が通過して行くのを見ることができた。飛行機は小さく白く光って見えた。昭和20年8月15日終戦の日、ちょうどその日私は床屋にいて、そこで天皇陛下の御言葉を聞いた。このときは誰もが信じ難く複雑な気持ちだったと思う。戦争が終わって後、私達の生活が今後どうなるかさえ何も考えられなかった。

 終戦後は、ますます食糧難がつづき、私達疎開者も自給自足のため、上級生の先輩たちが畑を開墾するなど団体作業もよく行われた。2年目の秋が来た頃、学童疎開者の中からは、親戚のいる所へ転籍する者も何人か出てきた。私達(姉と私)も叔母が迎えに来てくれた。叔母のいる熊本県上益城郡三船町大字木倉北村の坂本長男様の屋敷内に新築された叔母夫婦(大田家)のところにお世話になることになったのである。叔母の旦那様は復員して間もないころであった。私達は宮崎から木炭バスで高森へ向かい、高森から熊本駅までは汽車に乗って、さらにそこから御船行きの汽車に乗り換えをし、ようやく夕方、御船駅に到着した。日がどっぷり暮れてから叔父叔母の家に着いた。坂本家の屋敷は広く、大田家の家は本家のそばに叔父が新築したものであった。屋根は孟宗竹を輪切りにして節の部分を取り除き、その竹を重ね合わせて作られたいわゆる竹瓦の屋根であった。その日から姉と私は叔母夫婦の家族となり、新しい生活に入った。私達はすぐ学校へ入学することもでき、新しい学校で勉強する事になった。学校の名前は「木の倉小学校」であった。それ以後、沖縄へ帰るまで坂本家、大田家の皆様にお世話になった。

 学童疎開中にお世話くださった引率の先生方、世話係の皆様、正念寺のご家族の皆様、上野村役場の皆様、上野国民学校の先生方、職員の皆様、そして上野村民の皆様、私達疎開団のためにさまざまな御援助をいただき誠に感謝申し上げます。そして沖縄に引き揚げるまでお世話を戴いた大田の叔父さん叔母さんありがとうございました。おかげさまで私達家族は、その後父もフィリピンより復員し、沖縄にいた母、姉妹も元気で家族全員そろって戦後の生活をスタートすることができました。
 終戦50年を迎えるにあたり私の記憶を綴った。

 高千穂町民の皆様へ心より感謝申し上げます。
(1995年)

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