防衛隊・海上特攻隊(饒波・高安) 城間 精徳(西原町字内間出身)_1_全文

ID1170931
作者城間 精徳
作者備考出身地「西原町字内間」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目防衛隊
資料名(別名)西原町字内間_城間 精徳_「捕虜としてハワイへ」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、退役後防衛隊へ、与那原に駐屯球部隊、海上特攻隊、特攻艇(饒波・高安)、豊見城グスク、田頭捕虜収容所、ハワイ収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.896-902
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
饒波・高安
市町村2西原町
字2内間
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は、現役でノモンハンに参戦(昭和12年5月勃発)し、以後4年間兵隊だった。昭和15年4月に沖縄に帰ってからは夫婦2人で静かに暮らしていたのに、昭和20年の3月上旬頃、また防衛隊召集の赤紙がきた。今の与那原小学校の向かいにあった運動場に集合しろということだったので、そこへ行ってみると、中城村伊集の人で新垣シゲオさん(陸軍中尉)という中頭郡の連合会会長をやっていた人が御殿山(うどぅんやま)の運動場で挨拶していた。

 「皆さんは、一地方人ではなく、一防衛隊であるから、今日からここの兵舎で過ごすこと」と言って、私たちを木材を集めるようにして集めたら、引き渡し、自分は家に帰ってしまった。

 私はその日から、与那原に駐屯していた球部隊に配属された。以前、「与那原テック」で、今はゴルフ場になっているところである。そこに友軍の海上特攻隊があった。その山からトロッコのレールを敷いて特攻艇を乗せ、与那原の浜まで運びそこから出撃させ、敵艦にさし向ける手筈であった。しかし、見えないように巧く艇を隠しているつもりでも、上空からは特攻艇のありかが分かったのか、出撃しないうちにどんどん敵にやられた。

 中城村の津覇、和宇慶に米軍が迫ってきた時、私たちは与那原から残りの艇を、豊見城村の饒波、高安に撤退させた。そこは漫湖の入り江で、満潮になると特攻艇も出しやすいし、川の両側はユーナの木が繁っていたので、特攻艇を隠すのにも好都合だった。与那原では一度も出撃するのを見たことはなかったが、豊見城に来てから一度だけ特攻艇を出撃させたのを覚えている。
 現在の火葬場の近くに橋があり、私たちはそこを「めがね橋(石火矢橋のこと)」と言っていた。今はコンクリートの橋だが、戦前はアーチ型の石橋だった。そこの上のほうで特攻艇を準備していたが、たびたび敵の攻撃を受けるのでなかなか出撃できなかった。しかし、一度だけ出撃させたことがあった。
 そのとき、上官から「戦果を確認しろ」と言われて、豊見城城址の向かいにあった小高い丘(知念森・現在の県営真玉橋団地一帯)から、夜通し海のほうを見ていた。しかし火も上がらないし、水柱も立つことはなかった。
 後日、だいぶ日が経ってから、私が南部を逃げ惑っているとき、この特攻艇に乗って出撃したはずの若い見習い士官に出会ったことがあった。名前は分からないが顔は覚えていたので間違いない。
 特攻艇は、1つの艇に1人が乗り込み操縦するもので、特攻隊員はだいたいが若い見習い士官だった。艇には、ドラム缶ぐらいの大きさの弾薬が後ろのほうに積まれ、船体はベニヤ板で造られているので軽量であった。そのまま敵艦に体当たりするわけだからまさに「人間魚雷」である。操縦席は座っていても胸から上のほうは出ており、人ひとりがやっと座われるだけの穴しかなかった。これも後で聞いた話だが、中城湾にずらっと押し寄せていた敵艦隊は、昼はまるで接岸しているかのように陸の近くにいて、夜はずっと沖のほうに停泊していたという。それに向かって特攻艇を出撃させるのだが、敵艦のまわりには材木がいっぱい浮かべられているので、薄いベニヤ板で造られている特攻艇は、この材木に当たってダメになってしまったという。材木に当たったらもう一巻の終わりだ。米軍は日本の特攻艇がどんな材料で造ってあったかも分かっていたらしい。

 私たちは、饒波・高安で2、3週間、民家の裏側に壕を掘って過ごした。与那原から移動したとき20名あまりいた仲間も、饒波・高安に移ったときには、8人くらいになっていた。
 海上特攻艇もすべて失って、艇運搬の仕事もなくなったので私たち防衛隊は、野戦砲隊に移された。そこでは砲弾の運搬に従事した。ほかに砲弾だけではなく、負傷兵を運んだりすることもあった。
 6月に入って私は防衛隊から離れた。具志頭村の役場の辺りであった。その時は軍服も鉄砲も捨て雑嚢に塩をいれて歩いていたが、しばらくして塩だけを取って雑嚢も放り捨てた。道路に出て、どこへ行こうかと迷っている時に、同じ字(西原町字内間)の知人で〈高門=タカジョウ〉ニオースーと〈前新川小〉のターリー2人に出会った。この2人は、南西に行こうとしていた。

 私はそこから新垣方面へ向かった。そして新垣の部落はずれにある大きな岩陰で2晩を過ごした。辺りは集中砲火でほとんど草木もなくなっていた。そこからさらに真壁村に行って、上がり下がりの起伏のある畑に入り込み3日間過ごした。カヤブチヤー(茅葺き屋)くらいの大きさの岩があって、その岩の南側から穴を掘って避難していた人もいた。その岩の西側には同じ字の〈外間小〉のターリーとその奥さん、子供たちや兄弟、また和宇慶にいらっしゃった奥さんの母親、さらに奥さんの妹やその子供(当時1、2年生)たちなど大家族が身を潜めていた。私は、そこから少し離れたところにタコツボ壕を掘って1人で入っていた。私から2メートルくらい離れたところには負傷した日本兵もいた。ここの近くには立派な壕もあって、そこには平敷先生のいとこで若い夫婦と2、3カ月しか経っていない赤ん坊の3人が入っていた。この人達は読谷の人だった。
 6月18日の晩、この立派な壕にいた若夫婦から、一緒に入ったらと誘われたが、〈高門〉ニオースーも1人で入っていたし、若夫婦の邪魔はしたくないので遠慮した。
 その晩、私はどうも眠れなかった。すると案の定、この夜、〈外間小〉ターリーたちが隠れていた茅葺き屋くらいの岩に迫撃砲が直撃したのだった。6、7人いた人達の中から奥さんの妹1人だけが無傷で助かり、他の人達はみんな吹っ飛ばされていた。翌19日の朝、私と奥さんの妹2人でふっ飛ばされた人達に土をかぶせ埋めてあげた。するとそこへ友軍がやって来て「隣りの真栄里まで第一線となっている。お前たちがここにいたら邪魔だから、南のほうに出て行きなさい」と言われた。さっそく〈高門〉ニオースーと〈外間小〉ターリーの奥さんの妹、平敷先生のいとこ夫婦にそのことを話したら、「南のほうに行っても壕もないが、どうしようか」と判断しかねる様子であった。私は「敵のほうに行こう。立ち向かわなかったら敵は何にもしないはずだ」と言ったが、皆に反対され、仕方なく結局6人でさらに南の方に進むことにした。

 私達は真栄里の部落に入った。ちょうど部落はずれの畑に差しかかったところで、2人の偽装した日本兵に出くわした。斥候兵だろうか、息をハーハーはずませながら「米軍はそこまで来ているよ。危ないから下がれ、下がれ」と言っていた。私たちはそこでしばらく立ち止まり、その兵隊2人がいなくなってから、また畑を西側に歩いていった。小さなカーラ(川)があってそれに沿って農道が通っていた。すぐ近くにはアーチ型の石橋もあった。カーラは4、5日雨が降っていなかったせいか、水は流れてなかったので、そこを飛び越えて行こうとした。しかし、飛び越えた先の畑の中で背嚢を背負ってずらっと一列に伏せている兵隊らが目に飛び込んだ。私たちはまた先程の日本兵と同様うるさく言われるからと思い、近くにあったアーチ型の橋の下で、これらの兵隊がどこかほかの場所に移動するまでしばらく待っていようと待機することにした。私は橋の前に立って見張り役をやっていた。いつのまに4、5人くらいの別の人が加わり、私たちの集団の人数は増えていた。

 先程の兵隊たちとの距離は14、15メートルしか離れておらず、私たちが橋の下に入っていくのも当然全部みられていた。すると、先程の兵隊らが私に向かって「来い、来い」と手招きをする。呼ばれた私がその兵隊のすぐ近くまで行ったら、それはなんと日本兵でなく米兵だったのだ。てっきり日本兵だと思っていた私はびっくり仰天であった。目の色の違う米兵を見て、すぐさま逃げようとしたが、逃げたら撃たれると考え、思いとどまった。そのまま振り向くと米兵はポケットからタバコを出して「吸いなさい」という身振りをみせた。続いてその人の後ろから比較的日本語の上手なアメリカ人が出てきて「あの橋の下にいる人はあなたの仲間か?どこから来たのか?」と聞かれた。そして「真壁からきたなら、日本軍のいる所を知っているだろう。道案内してほしい。」と頼まれた。そんなことをしたら大変なことになるからそれは断った。私たちと一緒に橋の下に隠れていた人で当時60歳くらいのおじいさん(宇栄原の人だった)がいて、この人と私以外の残りの人は、皆んな糸満のほうに行くよう指示された。

 私とおじいさんの2人は米兵から「昨夜、3人殺したから、それを3つの穴を掘って埋めてほしい。」とスコップを渡された。おじいさんは、穴を掘っているとき、自分が殺され、ここに埋められるのかと心配していた。3つの穴が完成したあと、それぞれの穴に死体を埋めた。1人は防衛隊、1人はおばあさん、1人は本土出身の兵隊だった。埋め終わると、将校が暖かいコーヒーをいれてくれた。さらに将校は私たちに手間賃として50銭札1枚を私に、30銭(十銭札3枚)をおじいさんにそれぞれ渡した。そして「先に行った人たちと合流しなさい」と解放された。

 二人は荷物を担いで糸満まで向かった。すると、今の糸満ロータリー付近に人がたくさん集まっており、先に歩いていった人たちとそこで合流することができた。
 私たちはそこからトラックに乗せられ、豊見城村の我那覇・名嘉地に連れていかれた。そこで私たちはずっと並ばされていた。そのとき前那覇市長で当間重剛さんだったと思うがこの人がかばんを持って、おずおずと連れてこられた。連れてきた人が通訳のできる人を探して、将校らしい偉い人に「この方は、前の那覇市長です」と紹介した。それから前市長は案内されて中に入って行った。やっと落ち着きを取り戻したみたいだった。

 私は、捕虜としてここへ連れてこられる以前に、実は、〈外間小〉ターリーの奥さんの妹と話し合い、もし2人が収容所まで生き残っていたら、夫婦ということにしておこうと申し合わせていた。ところが、収容所で2人並んで待っていると、私のところにハワイ帰りの2世の人がやって来て、「おい青年、おまえは出身はどこか。兵隊か、防衛隊か、一般の人か」と尋ねてきた。「私は西原出身です。実は防衛隊であったが、何と言おうか…」と口ごもっていたら、「マットーバー(正直に)言った方がいいよ」と言われた。私は先程の質問に正直に答えるとすぐ赤札(名刺)みたいなものをかけられ、奥さんの妹とはそこで別々になった。

 その日のうちで、私はトラックに乗せられ豊見城村字田頭にあった周囲を金網で囲まれたある民家に連れて行かれた。着いたのは夕方だった。6月19日の夜は、一晩中降り続いたわけではないが大雨が降っていた。米兵らは家の中にいて、私たちは庭先に収容された。雨にうたれる私たちを見て、米兵が家の中からテントを投げたので、それを広げて皆んなで被っていた。ここで私たちは写真も撮られたようだが、並ばされて撮られたのかどうかは覚えてない。
 翌20日、私たちは屋良(嘉手納)飛行場に連れて行かれ、そこで2晩テント小屋で過ごし、さらに屋嘉部落へと連れて行かれた。そこにはフクギの木はあったが、ブルドーザーで土地を平らにしていた最中で収容所はまだ完成してなかった。

 さっそく私たちはバリカンを手渡され、髪の毛を切りなさいと言われ、さらにハサミで髭を短くしなさいと命じられた。そしてDDT(消毒薬)をかけられ一晩を過ごした。しばらくすると、また私たちはトラックに乗せられた。私たちと同じ防衛隊に参加したハワイ帰りの人で、西原国民学校前の馬場近くに〈沢岻小=タクシグヮー〉という学用品屋の息子がいたが、この人がここ屋嘉収容所で通訳をしていた。私はこの人に自分たちは今度はどこに連れて行かれるのかとたずねたら、「ハワイに連れて行かれるらしい」と教えてくれた。

 私たちを乗せたトラックは石川方面に向かっていた。周りの人は「南に連れて行くのだろうか」などと話していた。やがて私たちは北谷の野国海岸に連れて行かれそこで降ろされた。沖に輸送船が停まっていた。上陸用舟艇がきて私たちはこれに乗り、沖合の輸送船に横付けした。船からはロープで網が降ろされ、私たちはこの網をたぐって6、7名並んで1人ひとり輸送船に乗り込んだ。
 私たちは船の甲板上で裸にされ、DDTをかけられた。そしてランニングとパンツを一枚ずつ渡され、案内の後について船底に連れていかれた。壁にはパイプを立てた棚のようなベッドが3段くらいあった。寝台の数と人間の数を合わすため、寝台の前に立たされた。それからは17日間をかけての航海だった。ハワイには直接向かったのではなく、南洋で泊まった。サイパン島とテニアン島の間で1日停泊した。
 ハワイに到着すると、私たちはオアフ島に降ろされ、またそこからトラックで捕虜収容所に入った。今まで17日間も1日2食のおかゆ(羊の肉が入っていた)を与えられていたのに、ハワイに着くと、収容所内ですぐ食器に山盛りのごはんをもらった。所内にはちゃんと食堂も設けられ、献立もおかず付きであった。おかゆばかり食べていた私たちは、ごはんを急にいっぱい食べたため、皆んな下痢をして大変だった。薬をもらってしだいに良くなった。

 クニヤコーチには2週間から1カ月はいた。そこでは取り調べは行われたが、労役など作業はなかった。
 セナーレンという収容所は、ホノルル港の向かいの離れ島を埋め立てた軍事基地であった。私たちは次にそこに入れられた。毎朝トラックに乗って作業に出かけた。収容所は、福地隊や仲田隊といって3つの隊に分かれ、収容区画も金網で別々に囲まれていた。1つの金網の中に1つの食堂があって、捕虜が食事を作っていた。

 福地隊は、与那原の上のほうにあった福地病院の先生の兄弟で糸満国民学校の教頭だった人が隊長をしていた。もう一つの仲田隊の隊長は、与那原の仲田万助さん(町会議員)であった。それぞれ1000名くらいずつ分かれていた。仲村エイハルさんがもう一つの中隊長。中城村の仲村家の婿さんであった。
 私たちは金網から出て、作業へ向かい、また帰ってくるときには身体検査を受け何か持ち込んでないかを調べられた。
 沖縄には、昭和21年のクリスマスに久場崎に帰って来た。インヌミヤードゥイ(沖縄市高原)で一晩過ごし、それから出身市町村へそれぞれ戻っていった。

※西原町出身の城間さんは、防衛隊として沖縄戦に従軍、村内饒波川流域にあったと言われる特攻艇に関する証言や、激戦の南部をさまよったあと捕虜として収容された字田頭の収容所の状況などが述べられている。

(1995年 聞き取り)

PageTop