根差部 具志 波津美(従軍看護婦) 1 全文
| ID | 1170921 |
|---|---|
| 作者 | 具志 波津美 |
| 作者備考 | 出身地「根差部」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 軍人・軍属 |
| 細項目 | 従軍看護婦 |
| 資料名(別名) | 根差部_具志 波津美_「看護婦として生きる」_1_全文 |
| キーワード | 軍人・軍属体験談、暁部隊通信隊、嘉数高台、解散後南部避難、伊良波収容所、宜野座の収容所 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.888-896 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 根差部 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦中 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 死ぬ前に母に会いたい 首里の司令部が落ち、敵は安里の周辺まで押し寄せているとの情報で、兵隊も次々に斬り切り込みに行く。私が働いていた暁部隊通信隊は嘉数高台に陣取っていた。4月も半ばを過ぎたある夕方、共に働いた桿田衛生兵が一枚の紙切れを渡した。解散命令であった。衛生材料や薬品を渡しながら傷ついた人々のため最後までがんばる様「此れは万一の場合に」と私の目をじっと見つめながら渡されたのは劇薬だった。 今夜、兵隊は斬り込みに行くのか?軍刀磨きつつ、「未練じゃないが古里へ夢よ今宵も通ふらん」鼻唄をうたっている兵隊、身廻り品を片付けている者、慰問袋から使い残りの品を片付けて私に持ってきてくれる者、「今日が最後なのか。死ぬのは惜しくもないが、せめて母に会って死にたい」言う幾十人の兵隊から聞いた言葉が母に勝る者なき、心温まる言葉。各々の母が朝に夕に我が子の帰りを一日千秋の思いで待ち続けているのに、同じ日本国土にいながら会うことのできない戦乱沖縄、一度だけでも会わしてあげられたらと、胸につまるものがあった。 壕生活と負傷者の治療 兵隊たちに別れを告げて、夕闇せまる母達の壕へ急いだ。壕は、弟や近所の人たちでコの字型に掘ってあり、家から畳やゴザを持ちだし、トランクや柳行季がそれぞれの家族のそばに積まれていた。壕生活も1ヵ月が過ぎ、食事の煮炊きは暗いうちに家でやる。手っ取り早いまぜ御飯が毎日の食事。 夜明けと同時に艦砲の音は日没までつづき、恐怖の毎日だった。米兵も食事中なのか夕方のちょっとのあいだ艦砲は少なくなる。みんな壕からでて外気を吸うと、生きたここちがした。私は救急鞄を下げて傷ついた人々の壕へと走った。頭を負傷した少年のいる山の谷間の壕へ。時々弾は近くに落ちる。幾度か爆風に身を伏せながら、やっとたどりつく。淡いローソクに照らされた顔を見、今夜か明日の命であることを察し、真新しい包帯に取り替える。外に出ると2人の青年に、今怪我人が出たからとつれだされる。夕飯の支度に行き、庭に落ちた弾の破片で腕をやられている。皮下脂肪が多いので血管まで達していない。日はとっぷりと暮れ、壕に帰ると足をやられた青年が待っていた。日増しに負傷者が増えてきた。 フンドシを縫う 夕食時に佐藤少尉が訪ねてきた。白木綿を持って「すまないがシャツとフンドシ今夜中に縫ってくれ」と言う。教わりながらシャツ、フンドシを縫い上げながら少尉の身の上話を聞いた。台湾のマンゴーもう一度食べたいとおっしゃった。私もおもわず新竹のミカンを食べたいですね……台湾へもう一度行きたいと思った。だが、今は生きる事すら望めない、死出に旅立つ準備ではないか、だんだん私の心は重くなりそっと少尉の顔をのぞいた。お子さんや奥さんのこと……沈みがちになる心をわざと明るく、勝利の暁にはお子さんもつれていらしてねと言った。シャツとフンドシを縫い上げたころ夜も白々とあけはじめた。 飯島伍長との別れ 夜明けと共に爆撃が治まり、今まで知念方面に飛んでいく艦砲もだんだん近くに落ちるようになった。いつこの壕に爆弾が落ちるかと1日中不安である。しかし、4・5年も故郷を離れてお母さんの顔も見ずに死んでいく兵隊達にくらべ、私たち親子一緒に死ぬことは幸せかも知れない、弾が激しくなるたびに死へのあきらめが脳裏を走るのであった。夕食時に外で遊んでいた妹が傷の手当てしている私のところにかけ込んできて、紀野少尉や酒井少尉達が切り込みに行ったと言う。軍隊は秘密を守るため最後のお別れも言えない身、おろかな戦争で虫けらのように死んでいくのかと思うと残念でならない。兵隊達の出発が目立つようになり、私は黒砂糖にハッタイ粉をまぶしてさらしの袋に入れて、お別れに来る兵隊に私の精一杯のもてなしとした。酒井少尉の出発も妹から聞かされ、今度こそお別れをせねば永遠に……妹に教えられた薄暗くなった道で大声を張り上げて少尉の名をよんだ。闇の中を引返し、胸の内ポケットから一枚の紙切れと写真を私に渡す。だれに渡すべき紙切れと写真だろうか。黒砂糖の袋を渡しつつ「ご無事を祈って居りますから」と笑って愛国心に燃えた23歳の青年将校の姿を見送った。 壕の外で私たちの名を呼ぶ声に夜明けであるのを知る。飯島伍長である。たえず心の隅にえがいている人、これが恋というものなのか。幼くして父を亡くした私たち姉妹には、父の様なまた兄の様にも思えた。妹の勉強をよく見てくれた。米軍上陸と同時にいずことも知れず移動して行った彼が、壕の外にたたずむ姿を見て、生きていてくれてたこと、会いに来てくれたこと、なつかしさと喜びはつかの間、お別れに来たと言う。6キロの道を夜通し、しかも弾雨の中を……。私を愛していてくれたかと思うとどこか遠いところに逃げることが出来たら一緒について行きたかった。握手を求められ、男性の手に一度だってふれた事もないので胸が波打ち、恥ずかしさのあまりうつむいたままおそるおそる左手をさしだした。4、5分の逢瀬……。朝靄の中振り返る事もなく立ち去る。私は手のぬくもりを胸に当てたまま、壕の中にたたずみぼうぜんとしてしていた。 死ぬ前の兵士の頼み 朝食もまだ食べていないのに、老人が腕をやられたので来てくれとのこと。場所は山の中腹のタコ壺壕。4、5日も手当てしてなくて、蛆が湧いて傷の周辺を出たり入ったりしている。1匹残らず取り去るのに時間がかかり、壕に入れぬ私は砲弾が気がかりである。老人は弱々しく礼をのべ、私が明日も来ますと言ったら喜んでいた。明日を約束したが自分も明日は知れない命である。壕に帰り、母の炊いたご飯を祖母と4人で囲んでいる時佐藤少尉が訪ねて来た。昨日発った第一陣全滅とのこと。だが目前に見えぬ死、涙もでない。神経は痲痺してしまったのか、死んでいった人々の名を毎日耳にしても涙が湧かないのであった。少尉は「貴女に縫っていただいたシャツですよ」と言いつつ、襟元を開いて見せ、「やはり死ぬ時はきれいにして死にたいですよ」と淋しげに笑った。少尉は胸のポケットから2枚の写真を1枚は従妹のツヤちゃんに1枚は私に渡した。平和になったら国元に知らせてくれるように頼まれた。裏には大分県の住所が書かれていた。真新しいインクの筆跡を見つめていたら、いつしか文字がかすみ言いようのない悲しみで胸を締め付けられた。が、涙を見せてはいけないと笑顔をつくろい、砂糖袋を渡した。竹下曹長が訪ねてきたのも私の心をいっそう暗くした。70歳をすぎた母一人子一人彼がいつか話してくれた身の上話、戦場に発つとは露ほども知らない老いし母、一目会わせて上げたい。曹長もポケットから1枚の写真を渡して「お母さんに会ってから死にたかった」どんな慰めの言葉をかけてよいやら22歳の年齢には浮かばなかった。命を大事になさってお母さんが待っていらっしゃるよ。別れのつらさ、戦場に行く兵隊との別れはなおつらい。 艦砲の音の遠のくのを見計らって昨日約束した老人の壕へと急いだ。おじいさんと呼びかけ、肩に手をかけたが冷たくなっている。あんなに喜んでいてくれたのにだれにも看取られず、さみしく世を去ったかと思うと涙がこぼれる。鞄の中からガーゼをだし顔にかけて、おそ咲きのスミレの花を集め胸元に置く。静かになった合間を一目散に下りていった。 高熱のまま避難 今まで朝の早いうちに我が家に通って行ったが外に一歩も出られないようになった。いつしか人の心も日増しに無情な人間になりつつあった。自分の位置のせまさにいさかいになり、シラミが湧いたのは彼女のせいと人間の心もあれて来た。300米位はなれた本部壕も兵隊の姿も見えなくなり、いつしか雨期に入った。雨の中を傷の手当てで壕から壕へと忙しくなるばかり。5月も下旬に入ったころ、私は突然高熱で動けない様になった。敵は真玉橋まで来ているとの情報で近くの壕にいた男の家族は安全地求めて去る。今夜中に立ち退くよう兵隊が来てわめきちらす。気はあせるが体が動かない。持てるだけの食料や衣類をもち、元気ものは1人去り2人去りして残された者は手足の不自由な人や幼い乳飲み子をかかえた人ばかりになった。いつか私は死出の旅へと覚悟をきめ、下着やもんぺ着替えなど行李の中の一枚一枚の着物にふれた。リンズの羽織や友染の着物の花見や千日前の思い出が次々と脳裏を走る。一番好きな白梅をあしらった海老茶羽織りを肩にかけてみる。また手を通す事が出来るだろうか。やわらかい絹の感覚を味わっていると、母は女にとって着物は命の次に大切だからねと言った。 夜になるとまた兵隊が来て、早く立ち退かないと手榴弾投げるとわめき散らす。幸い熱も下がったので行けるところまで行くより仕方ない。四人分の食糧を母が、祖母と妹が着替え、医薬品を私のリュックにつめて心細い女ばかりの逃避。つえにすがり日暮れに壕を後にした。祖母の後にしたがったが、3歩も歩まずしてフラフラ。目の前が真っ暗になり、意地だけではどうしようもなかった。手榴弾が飛んで来なくても、死を待つ歩けぬ身だから鞄の奥深くしまった薬品に手を触れてみた。小さな瓶、最後の助け船のようにも思える。自分の体に針を刺すという事は大変勇気がいる。私のために助かるかも知れない祖母や妹の命まで……。自分の体にプスッと注射した。2日目の夕方斥候に来た二人の兵隊がまだ壕にいるのに驚き、敵は嘉数部落に入っている、早くここを逃げなさい肩をかしてくれるからとの兵隊の言葉に勇気づけられ左右の肩を兵隊の肩にもたれて糸満へと壕を後にした。 散乱した死体 根差部を通るころからあちこちに転がっている死体。鼻をつまんでも死臭が後を断たない。砲弾は近くに落ち、兵隊とともにもんどりかえる。照明弾が上がるたび、散乱した死体が浮き彫りにされ、自分達が生き残るのは絶望的な逃避行に思えた。私は途中で気を失ったりした。 1人の怪我人も出さないで糸満の町を見い出した時、思わず顔がほころんだ。弾の音も聞こえない、町全体が静まりかえり人々はどこへ行ってたのか。砲弾にやられた家々があり、何千年も時は去り、この世で私たちだけが生きているようで不気味であった。白銀堂に詣でる。はるか彼方の沖合に二重三重にひしめく米軍艦、神に頼み神風が起きてくれる事を願う。平穏な3日間は夢のごとく去り、米軍は糸満を目標に攻撃開始した。日の沈むのを待ち、安全地帯へ逃げる。どこからか降って来たように歩いていた兵隊の頭部に破片が当たった。助けて下さいとひれ伏す姿もあわれな軍人の姿。残り少ない薬品を分け与える。昼間どこに避難しているのか知らないが、夜ともなれば糸満街道は行き交う人々の群れ。戦友の遺骨を大事そうに抱いているもの、1本の縄を輪にし4、5名の兵隊が縄を頼りに歩いている姿。歩く事も出来ず、膝ではっている兵隊、袋を必死に捕まえて食糧を乞う者、分け与えるものもない悲しさ。戦争を起こした人々にこの姿を見せてやりたいと思った。 真栄里部落の家々にランプの灯がともっていた。幾月振りで見る灯、まるで戦争のない国に来たようだ。ある一軒の家に馬小屋でもと今宵の宿をお願いしてみたが、断られた。門を出ていこうとすると奥の方でうめき声がし、足をとめて薬を分け与えると家の中に入れてくれた。久し振りに銀飯を頂き、生気を取り戻す。屋根の下で静かな朝を迎える。午後になって、砲弾が近くに落ちはじめた。私たちは四人が抱き合って運を天にまかす外なかった。前の家では多くの避難民がにぎやかな朝を迎えていたのに砲弾はその家に落ち、すべての人々を傷つけ死に至らしめた。早朝、壕に子供達を連れていった家主が肩をわしづかみにしてぶら下げて来た十歳位の少年を馬小屋の所にほうり投げた。味噌ガメが割れてその小年の頭にイガ栗の様に刺さっていた。私はきれいに味噌とカメの破片を取り除き、ホータイをしてあげるつもりが私の鞄は破片でやられていた。大事に持っていた薬品は砕けていた。 すれ違った弟よ 今までのどかだった此の部落も立ち退く人が多い。私たちも夜道を人々の後について歩む。今日も多くの犠牲者があちこち照明彈が上がる度照らし出された。子供を背負い手を引いたまま死んだ親子。道は暗くはぐれないようにひそひそと呼応して進む。生まれ故郷のアクセントは嫁いでも治らぬ人が多い。祖母もその1人である。闇の中で祖母があった同じ村の人の話では弟が今しがたここを通ったと言う。一刻も忘れぬ弟が今ここを。声をはり上げる事が出来るならたとえ血を吐いてでも叫びたかった。中学校を早々に卒業し、3月1日出征してあれっきり。人の命は紙一重というが、あの時に会えたなら弟は死ぬ事にはならなかったのではないかと残念でならない。敵は後方から一刻一刻押し寄せて来る。 母が炊いてくれたカユを、順番ですすりながら夜通し歩く事になる。小波蔵まで来たが、弾は激しく木々は根元からへし折られている。隠れる家も見当らず、死体がゴロゴロ、時には死体につまづき心で詫びる。旧は十五夜なのか月は皓皓と輝いていた。青白く屍を照らす月はなぜか冷たく冬の様だった。右に行こうか左にしようかもはや死を逃れる事は難しく、同じ死なら屋根の下でと部落のある方へ足を運ぶ。 沖縄の農家の設計はどこも似たような母屋を中心に、右にはなれ左に馬小屋のあるこの家にはいる。床の間に黒こげになった大男がアーと口を開いたまま死んでいる。馬小屋に近づくと一人の兵隊が座っていた。顎の繃帯がゆるんでいるので傷の手当てをしてあげた。すると胸の奥から大事そうに和紙に包んだ鰹節の小指大を差し出し、これをかめば元気出ますよとすすめてくれた。ここで落ち着く事にし夕食支度の母の手伝いをしていると軍刀を振りかざした兵隊に、敵は後方に来た、喜屋武に行けと迫られた。生きている限り戦野をさまよう以外ないのかと思った。 地獄の戦場 若い女の1番の恐怖は辱められるという事だった。壕を見つけそこに行こうとすると1人の兵隊が「お前達なぜ疎開しなかったか、少しの財産に未練があって行かなかっただろう、帰れ」とどなる。妹と2人で姉のところに行こうとしたが、若い者に渡航許可しなかったのは国ではないかと、私は胸の中で叫んだ。伊原部落を後に南へ南へと進んだ。機関銃の音も間近に聞こえた。心はあせる。道に散乱した死体につまづく度に、戦争ゆえと詫びをいれる。ようやく喜屋武に着いたのは朝だった。砂糖小屋を見つけ、危険は承知で中へ入る。私たち同様生き延びた人たちがさまよい来る。そこで叔父達と会い、何となく安心感が湧いた。 18歳の息子が足をやられずっと母親が背負っている姿を見た。母の愛の深さに深く感動した。知人がふえ、砂糖小屋もにぎやかになり、孤独で死ぬより大勢で死ぬのは怖くなく、今までの不安は去ってしまった。かまの焚き口に伯父家族、私の祖母、母、妹、隣の家の母親とその息子がいた。私達若い3人娘は鍋を伏せて12時間横になっていた。弾の止むのは夕暮れ時の小1時間。人々はこの時間で食糧を求めて水を汲みに行く。この村は水の不便な所。海岸近く、敵艦からまる見えなのか、水汲みに行って命断たれるのが多く、井戸の周辺は死んだ人が重なりあっていた。母は若いお前達が死んで自分が生きて何になると弾雨の中水汲みに行く。今母を失ったらと思うと自分達も何の望みもない。水タンクを見つけて中をのぞくと負傷した兵隊が五人いる。私の顔を見るなり看護婦さん助けて下さいと哀願する。小屋に案内して手当てをしてあげる。皆それぞれ傷が深く、脇腹をやられた岡本、足を負傷した日下部、腕を骨折した上等兵、五人の兵隊達は蛆が湧き、傷の痛みより蛆にかまれる痛さがたえられなかったという。伍長の腕の添え木探して歩いている時、無残な死を見た。長い髪がガジュマルに巻きつき、首からぶら下がり、爆風が来る度ゆれていた。これが人間の死とはあまりにもむごい、私たちも死を逃れる事は出来なければ……ふと鞄の底の薬瓶が恋しくなった。 捕虜になれ 夕闇の中を時々、高射砲の音が聞こえた。今はただただ奇跡が起きてくれる事をひたすら願っていた。兵隊達の傷も日増しによくなりつつあるが、敗戦は目前に迫っていた。医者の息子で父親から医者になる様すすめられて反対したが、傷ついてありがたみがわかり、生きて帰れる事があれば医者になりたいと話してくれた日下部上等兵。兵隊達も4、5日の間に傷も小さく皆元気になっていた。喜屋武部落に敵が入って来たと人々はあわただしく身支度をし始めた。岡本上等兵が私の耳元に「捕虜になりなさい」と言った。 喜屋武部落で機関銃の音が激しく聞こえるようになり、人々は追い込まれるままに闇の岬へ向かった。何処で見失ったか私は1人ぼっちになった。闇夜の海はドス黒くもう逃げる所もない。今日までの命だったら母の胸元で親子死ねばよかった。祖母や妹はどうなったのか。 突然雨が降り出した。幾十万の無念の涙なのか、私は濡れながら死に場所を求めて海べりへ。時々どこかで天皇陛下万歳の声と弾の音が聞こえる。あれはあの兵隊達の最後の声ではなかったか。 6月22日、朝が明けた砂浜でアダンの繁みに首を突っ込むと人がいる。ようやく隣の伯母達に会い、何か力を得た。敵艦が手に取るように見える。時々ボートから日本語で手を上げて出て来いと言っている。赤ら顔の米兵や初めてみる黒人兵の姿があった。捕らえられたら若い女は慰安所に送られるということが、うそでもなさそうに思えて私の心を苦しめた。北部は日本軍が勝利だという。糸満を突破できたら日本軍の所に行ける……希望の湧く話に人々にまじって私もついて行く。喜屋武部落は赤々と燃え、機関銃の音も激しい。糸満を突破できたら日本軍の支配地に行けるとひたすらそれを信じ糸満へと向かう。砂浜は自決者が折り重なって死んでいて波が打ち寄せる度、砂地と波の間を寄せては返している。歩いても歩いても死体は後を断たない。腰まで濡れながら糸満へ。どこからともなくレコードが聞こえる。あれは慰安所なのか。 前に進む事も後ろに退く事も出来ず、闇の浜辺で立ち止まっていると不意に米兵が現れた。一縷の望みも消え、砂をつかみ泣き伏した。米兵は付いてくるようにと、手で示した。小銃の音が近くで聞こえた。あれは私同様捕らえられ命を断たれているのか。 物心ついた時から支那事変、大東亜戦争。思えばたった二十余年の命私は犬死するのか、いや少しでも傷ついた人々の役に立ったはずだ。犬死にでないと自分に言い聞かせると、今までの不安が消え、いさぎよく死ぬ覚悟が出来た。しばらく行くと糸満の道に出た。たくさんの人々が糸満へと歩いている。民間人だから家に帰してくれたんだと小躍りした。糸満ではトラックが待っていて、MPが前後2名監視して夜の糸満をはなれた。余りにも喉がかわく。今はただ水だけがほしい。うろおぼえの英語で「ウオーター」と水を求めた。MPは車から下り水筒に水を持って来てくれた。私は喉の奥深く流し込んだ。人々は私を見て毒は入っていないか、なんともないかとたずねた。思い残すことはなかった。しばらくして人々は奪い合うようにして水筒の水を次々と飲んだ。 私たちは畑の中に鉄線を張りめぐらし、裸電球があちこち灯された伊良波で下ろされた。まるでサーカスの動物のようにやせこけた人々がボロボロの服を着て、地べたに寝起きしている。私も片隅にリュックを下ろし、うずくまるように座っていた。時々兵隊が水があるから行かないかと誘う。口車に乗るのは危険と察した。眠れぬままに夜は明けた。トラックで那覇を過ぎ、北へ北へと車は走る。どこを見ても日本軍の姿は見えず、ジープが陽気に走りまわり米兵の兵舎が見えるだけ。宜野座で車を下ろされた時日本が負けたのを感じ、母や祖母、妹の事が脳裏に浮かんだ。 (1999年寄稿) |
