渡嘉敷 金城 保次郎(防衛隊 読谷村)_1_全文

ID1170801
作者金城 保次郎
作者備考出身地「渡嘉敷」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目防衛隊
資料名(別名)渡嘉敷_金城 保次郎_「竹ヤリだけの防衛隊」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、字の書記、供出、球部隊が駐屯、演芸会、壕掘り、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開、アカモウに壕、防衛召集、球18817部隊(第503特設警備工兵隊)、読谷飛行場、実質解散状態、美里村古謝、北中城大城、越来の収容所、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.847-849
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
渡嘉敷
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は戦前字の書記をしていたので、村から字に対して供出の通知があった場合には各世帯への供出物の割り当てをするために駆けずり回った。供出物は主に芋、豚、野菜等であった。又、徴用の通知があった場合にも対象者に集合場所、集合日時の連絡の役目を担っていた。徴用現場へは字民まとめて連れて行くことは無く、各自で行った。
 一方、字には球部隊が駐屯していたので、軍の慰安のため字公民館で演芸会などを行った。又、部落向かいの字保栄茂の山で軍が壕掘りの時などは、婦人会が先頭になって芋のたき出しをするなどの協力も惜しまなかった。

 10.10空襲(十・十空襲)の時は、私と家族は屋敷内に掘ってあった壕に避難していた。家族を山原に疎開させようと思っていたが、家族は皆一緒がいいと、そのまま渡嘉敷に留まっていた。特に疎開については村などから指示は無かったようだ。空襲後は、各家庭が個別に近くの山に防空壕を掘ったが「アカモウ」にあった壕は後に日本軍に強制的に接収された。山原疎開も区長が勧めたが、私の家族は南部へ逃げ、喜屋武で捕虜になったようだ。その後子供2人は山原の収容所で死亡した。

 私は昭和19年10月の空襲後に防衛召集され、球18817部隊(第503特設警備工兵隊)に配属された。配属地は読谷飛行場であった。私達工兵隊は読谷飛行場や嘉手納飛行場の整備や弾薬庫の穴掘り、時として空襲で穴のあいた滑走路の補修等にあけ暮れる毎日であった。防衛隊とは名ばかりで、所持する武器は竹ヤリのみで、戦闘訓練もなく、実際のところ労務部隊と言った方がいい。

 昭和20年4月1日、激しい艦砲射撃が数時間続いたあと、いよいよアメリカ軍が上陸するとき、防衛陣地にはこれといった兵力は無く、竹ヤリを持った歩哨が居るのみで、私たち防衛隊はただただアメリカ軍の上陸を眺めているだけだった。武器も弾も陣地もない竹ヤリ部隊ではどうしようもなかった。
 アメリカ軍上陸後、もはやどうにもならないので「退却しなさい、状況を見て南部に移動しなさい。」との命令を受けただけで、その時はもう部隊は散り散りバラバラだった。実質解散状態であった。指揮官もいないし、皆自由行動であった。部隊としての移動はなかった。私はとりあえず山原の大宜味村に向かった。しかし、自分の部落に帰りたいとの気持ちは強く持っていたので、折を見て南部へ行こうと決めていた。

 5月中旬ごろだったと思うが、長雨が続き、アメリカ軍の目を盗みやすく歩行はたやすいと思い、南部へ向け大宜味村を抜け出した。美里村の古謝まで、昼は隠れて夜移動した。墓に隠れている時に、シェパード犬を連れて廻っていたアメリカ兵に発見されて、何回も発砲され、1人は脚に銃弾を受けたが、皆必死に逃げた。中城まではなんとかたどり着いたが、アメリカ兵の姿が目立つようになり通れなかった。再び大雨の日を待って、豊見城村の人達12、13名連れだって南部へ移動した。その途中、アメリカ軍が天幕を張っている野営陣地に迷い込んでしまい、アメリカ軍の歩哨に見つかってしまい、機銃掃射を受けバラバラになって逃げた。私は与根出身の方と2人きりになった。月夜の晩2人で歩いていたら、又、歩哨に見つかってしまい、銃撃され与根の方が負傷した。彼は悲鳴をあげたようだった。後日、その方を見舞いに越来にある軍の病院に行ったら、脚の太ももを打ち抜かれていたが、元気そうだった。

 私は逃げようと崖を飛び降りた拍子に足をくじいてしまった。足を引きずったり、這いずって前進しながら中城のウフグスク(北中城大城)の部落に到着した。そこでしばらく1人で身を隠していた。夜になり食糧探しに部落内に出かけた。ニワトリを捕まえたがコッコーとうるさく鳴くものだからアメリカ兵に見つかったら大変だと思い逃がした。このニワトリが自分が隠れている壕の前でしきりに鳴いた。「ミードイが鳴くと厄」と聞かされていたので心配した。すると翌日捕虜になった。

 捕虜になり、越来の収容所へ連れていかれた。そこでいろいろと尋問を受けた。尋問をしたのは小禄村大嶺出身のハワイ2世で、「ウソはつかないように、正直に答えるように」と注意されたが、民間人であると主張して屋嘉収容所行きは免れた。
 ここでは、米軍兵舎の清掃や近くの久場崎港で港湾荷役作業をさせられた。配給の食糧は、同郷の赤嶺〇〇〇さん一家と一緒だったので不自由はなかった。

 昭和20年8月ごろ豊見城の伊良波西原(イリバル)に戻り、別れ別れになっていた家族と久し振りに逢うことができた。家族は金武村の「クチャ(古知屋)」まで連れていかれたようだった。自分の部落へは翌年の1月ごろ帰ることができた。
 むらは焼け野原になっていたので、残ったわずかな家財道具をかき集めて生活を始めた。字には焼け残った空き家があったので3、4世帯一緒に生活した。食料(主に缶詰、トウモロコシ等)は軍からの配給で飢えをしのいだ。後に材料を自分で調達して家を建てた。

(1998年聞き取り)

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